テマ制は計画的に導入されたとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:36 UTC 版)
「テマ制」の記事における「テマ制は計画的に導入されたとする説」の解説
初期の東ローマ帝国の地方制度はローマ帝政末期の属州制度を継承していた。即ち、中央から任命された州長官が行政を担当し、国境線の防衛は軍司令官が担当するという、軍事と行政の分担制度である。 しかし、ヘラクレイオスの時代ともなると、ユスティニアヌス1世以来の相次ぐ戦役により国家財政は悪化し、サーサーン朝ペルシア帝国は辛うじて退けたものの、新たに勃興してきたイスラム帝国やバルカン半島のブルガール人の侵攻により毎年のように首都コンスタンティノポリスが脅かされるようになり、従来の中央集権型の地方制度では敵国の同時侵攻に対応しきれなくなっていた。そこで異民族の侵入に素早く対応できるようにするために、現地の軍司令官が行政権を兼任するテマ(軍管区制)が導入された。 バルカン半島方面では自由農民の他にも勇猛さで知られたスラヴ人なども任用され、これも戦闘力の増強に一役買ったという。このストラティオティスは屯田兵でもあり、これらが各地に入植することで拠点を構築し、税収増や国防力強化へと繋がっていく。初期には土地の委譲が法律によって禁止されていたため、テマ単位での大規模な屯田を行うなど帝国によって厳重に統制されていた。特にコンスタンス2世の時代にスラヴ人を小アジアに入植させた政策は有効だったらしく、彼の時代にはウマイヤ朝を創始してイスラム帝国を継承したムアーウィヤも東ローマの小アジアにおける防衛線は突破することが出来なかった。 テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人やペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。ヘラクレイオスの時代にはサーサーン朝やイスラム帝国の侵攻によって従来の帝国の穀倉地帯であったシリアやエジプトが奪われており、「パンとサーカス」という言葉で有名な小麦の配給も廃止せざるをえなくなるほど帝国全体の生産力が低下していた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。
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