テマ制の崩壊とは? わかりやすく解説

テマ制の崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)

東ローマ帝国」の記事における「テマ制の崩壊」の解説

8世紀後半以降外敵大規模な侵入減り次第商業活性化していくと、それにつれてテマ農民兵士貧富の格差増大し中小自由農民層の没落貧困化が進行した安定期となったマケドニア朝時代大土地所有の傾向がはっきりと現れるようになり、10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的大土地所有者が確認できる。 ストラティオティス層は法律により土地譲渡禁じられていたため、まだ影響少なかったが、レオーン6世態度大土地所有の傾向確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地売った者の近隣者が6ヶ月以内売った価格同額支払えば買い戻せるとした先買権無効とした。ロマノス1世レカペノス時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国弊害もたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者先買権復活させ、さらに農村共同体優先的に土地譲渡をうける権利定めたまた、不当な価格取り引きされた土地については無償返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内売却価格同額支払えば土地取り戻せるとした。しかしこれらの法律守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方テマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世努力骨抜きにされたのである同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向助長した。マケドニア朝末期バシレイオス2世過去不法な土地譲渡皇帝直筆でない有力者への土地贈与文書無効とし、教会財産制限おこなった。これはかなりの効果上げ彼の軍事的成功もこの政策恩恵によるところが大きかった。 この時代にストラティオティスを基盤とした軍制崩壊した帝国計画的に軍事力削減し、ストラティオティス層からは軍役免除する代わりに納税義務づけた。これにより帝国ノルマン人などの傭兵軍事力大きく依存することになった以後テマ単なる行政単位となった帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位低下した

※この「テマ制の崩壊」の解説は、「東ローマ帝国」の解説の一部です。
「テマ制の崩壊」を含む「東ローマ帝国」の記事については、「東ローマ帝国」の概要を参照ください。

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