ユスティニアヌス帝時代の建設事業
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「ビザンティン建築」の記事における「ユスティニアヌス帝時代の建設事業」の解説
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解と呼べるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、のちにビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。 複雑な組積構造のため、独立柱と水平梁が衰退した。 東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末にまったく消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。 バシリカとドームを融合するプランが形成された。 ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。 ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現・ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現・ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現・ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。 東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。ひとつは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138メートル×65メートルにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工が持っていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もうひとつは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64メートル×56メートル貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15メートルにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15メートル近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。 ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。
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