オスマン・東ローマ戦争
オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)
「東ローマ帝国」の記事における「オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)」の解説
詳細は「オスマン・東ローマ戦争」を参照 1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(東ローマ内戦 (1352年 - 1357年))、1352年には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:1347年 - 1354年)は、1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。 1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。 14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。 この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。
※この「オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)」の解説は、「東ローマ帝国」の解説の一部です。
「オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)」を含む「東ローマ帝国」の記事については、「東ローマ帝国」の概要を参照ください。
- オスマン・東ローマ戦争のページへのリンク