東ローマ帝国の滅亡
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「オスマン・東ローマ戦争」の記事における「東ローマ帝国の滅亡」の解説
「コンスタンティノープルの陥落」を参照 滅亡するかに思われたオスマン帝国は、15世紀に入りメフメト1世によって再統一され、ムラト2世によって再建された。ムラト2世は東ローマ帝国が後援していた偽ムスタファを打ち負かして後継者争いに勝利し、さらに東ローマ帝国を再び臣従させた。さらにブルガリア、セルビア、アルバニアといったバルカン諸国を攻略していった。 この頃になると、もはや東ローマ帝国はコンスタンティノープルとペロポネソス半島を領有するだけの小国に成り下がっていた。1430年代には、バーゼル公会議やフィレンツェ公会議でカトリック教会と東方正教会の東西合同も検討されたが、様々な事情で紛糾し、まとまることは無かった。 マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は西欧諸国を訪問し、その息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)はフィレンツェ公会議にも出席して、援軍派遣を要請したが西欧諸国の反応は冷淡で、誰も応じる者がいなかった。 1451年に即位したメフメト2世はコンスタンティノープルを包囲して1453年5月29日に攻め落とし、最後の皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)も戦闘中に行方不明(事実上の戦死)。『イスタンブール』と改称したうえでエディルネから遷都し帝国の首都とした。 1456年にローマ教皇カリストゥス3世が十字軍結成を呼び掛けたが、実施されることは無かった。1460年に東ローマ帝国の地方政権であったモレアス専制公領を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服。地方からの捲土重来の望みも潰え、東ローマ帝国は完全に滅亡した。西ローマ帝国滅亡に1000年ほど遅れてのことで、古代ローマ帝国の系譜も途絶えた。 なお、東ローマ帝国末期にはパレオロゴス朝ルネサンスが開花し、フィレンツェ公会議への出席や帝国滅亡に伴って、イタリア方面を中心に流出し、西欧のルネサンスに多大な文化的な影響を与えた。
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