東ローマ帝国の滅亡とは? わかりやすく解説

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東ローマ帝国の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:13 UTC 版)

オスマン・東ローマ戦争」の記事における「東ローマ帝国の滅亡」の解説

コンスタンティノープルの陥落」を参照 滅亡するかに思われオスマン帝国は、15世紀入りメフメト1世によって再統一され、ムラト2世によって再建された。ムラト2世東ローマ帝国後援していた偽ムスタファ打ち負かし後継者争い勝利し、さらに東ローマ帝国を再び臣従させた。さらにブルガリアセルビアアルバニアといったバルカン諸国攻略していったこの頃になると、もはや東ローマ帝国コンスタンティノープルペロポネソス半島領有するだけの小国成り下がっていた。1430年代には、バーゼル公会議フィレンツェ公会議カトリック教会東方正教会東西合同検討されたが、様々な事情紛糾し、まとまることは無かったマヌエル2世パレオロゴス在位1391年 - 1425年)は西欧諸国訪問し、その息子ヨハネス8世パレオロゴス在位1425年 - 1448年)はフィレンツェ公会議にも出席して援軍派遣要請した西欧諸国反応冷淡で、誰も応じる者がいなかった。 1451年即位したメフメト2世コンスタンティノープル包囲して1453年5月29日攻め落とし最後の皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス在位1449年 - 1453年)も戦闘中行方不明事実上戦死)。『イスタンブール』と改称したうえでエディルネから遷都帝国首都とした。 1456年ローマ教皇カリストゥス3世十字軍結成呼び掛けたが、実施されることは無かった1460年東ローマ帝国地方政権であったモレアス専制公領を、1461年にはトレビゾンド帝国征服地方からの捲土重来望み潰え東ローマ帝国は完全に滅亡した西ローマ帝国滅亡1000年ほど遅れてのことで、古代ローマ帝国系譜途絶えた。 なお、東ローマ帝国末期にはパレオロゴス朝ルネサンス開花しフィレンツェ公会議への出席帝国滅亡伴ってイタリア方面中心に流出し西欧ルネサンス多大な文化的な影響与えた

※この「東ローマ帝国の滅亡」の解説は、「オスマン・東ローマ戦争」の解説の一部です。
「東ローマ帝国の滅亡」を含む「オスマン・東ローマ戦争」の記事については、「オスマン・東ローマ戦争」の概要を参照ください。

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