「第3のローマ」モスクワ
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「東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「「第3のローマ」モスクワ」の解説
モスクワの発展は、北方十字軍とタタールのくびきによる長い断絶の後に始まる。12世紀に植民されたモスクワは、最初は小さな要塞都市にすぎなかったが、1300年頃に領地を拡大し、1326年には、ルーシの府主教座を移転させるまでに至った。ただし、モスクワの建築が明確になるのは1400年以後のことで、東ローマ帝国の滅亡がかなり大きな契機となった。というのも、東ローマ帝国の後継国家としてモスクワは「第3のローマ」を自認したが、モスクワはその役割を引受けるほどの建築的資産をほとんど持っていなかったからである。 皇帝イヴァン3世は、1470年に倒壊の危機に瀕した生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)の再建を命じたが、モスクワの建築家によって再建されていた聖堂は、1474年に倒壊した。このため、彼はイタリア人建築家アリストテーレ・フィオラヴァンティの雇用を決定する。すなわち、ルネサンス建築の導入である。フィオラヴァンティはウラジーミルの旧ウスペンスキー大聖堂と同じ平面の教会堂を建てることを要求されたが、ルーシ各地を訪ねてその伝統を研究しつつ、ルネサンス建築の意匠を取り入れた。また、ドームに煉瓦を用いることで重量を軽減し、外壁を石灰岩で構成することで、内部の円柱の直径が必要以上に大きくなることをさけるなど、工学的にも優れた設計を行っている。 16世紀には、グラノヴィータヤ宮殿がピエトロ・アントニオ・ソラーリオとマルコ・ルッフォによって設計され、アルハンゲルスキー大聖堂がアレヴィシオによって建設された。 この時期の建築については北方ルネサンス建築も参照。
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