「第3のローマ」モスクワとは? わかりやすく解説

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「第3のローマ」モスクワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 15:28 UTC 版)

東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「「第3のローマ」モスクワ」の解説

モスクワ発展は、北方十字軍タタールのくびきによる長い断絶の後に始まる。12世紀植民されモスクワは、最初小さな要塞都市にすぎなかったが、1300年頃に領地拡大し1326年には、ルーシ府主教座を移転させるまでに至った。ただし、モスクワ建築明確になるのは1400年以後のことで、東ローマ帝国の滅亡がかなり大きな契機となったというのも東ローマ帝国後継国家としてモスクワは「第3のローマ」を自認したが、モスクワその役割引受けるほどの建築的資産をほとんど持っていなかったからである。 皇帝イヴァン3世は、1470年倒壊危機瀕した生神女就寝大聖堂ウスペンスキー大聖堂)の再建命じたが、モスクワ建築家によって再建されていた聖堂は、1474年倒壊したこのため、彼はイタリア人建築家アリストテーレ・フィオラヴァンティの雇用決定する。すなわち、ルネサンス建築導入である。フィオラヴァンティはウラジーミルの旧ウスペンスキー大聖堂と同じ平面教会堂建てることを要求されたが、ルーシ各地訪ねてその伝統を研究しつつ、ルネサンス建築意匠取り入れたまた、ドーム煉瓦用いることで重量軽減し外壁石灰岩構成することで、内部円柱直径必要以上に大きくなることをさけるなど、工学的にも優れた設計行っている。 16世紀には、グラノヴィータヤ宮殿がピエトロ・アントニオ・ソラーリオとマルコ・ルッフォによって設計されアルハンゲルスキー大聖堂がアレヴィシオによって建設された。 この時期建築について北方ルネサンス建築参照

※この「「第3のローマ」モスクワ」の解説は、「東欧諸国のビザンティン建築」の解説の一部です。
「「第3のローマ」モスクワ」を含む「東欧諸国のビザンティン建築」の記事については、「東欧諸国のビザンティン建築」の概要を参照ください。

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