東ローマ帝国の統治
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「ブルガリアの歴史」の記事における「東ローマ帝国の統治」の解説
東ローマ帝国の統治下に入ると、テマ制(セマ制)がブルガリアにも適用された。このころより農村にまで貨幣経済が浸透し、東ローマ帝国による徴税が強化されたことで、反東ローマ反乱があいついで起こった。こうした中で、東ローマ帝国側が11世紀後半以降、セルジューク朝や十字軍の攻撃によって弱体化し、プロノイア制の普及など分権化が進んだ。こうして、ブルガリア地域を統制することが困難になっていった。
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東ローマ帝国の統治
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「マグナ・グラエキア」の記事における「東ローマ帝国の統治」の解説
西ローマ帝国崩壊やゴート族によるイタリア支配の起こった中世前期、マグナ・グラエキアは東ゴート王国の一部となった。 しかし535年から554年、東ローマ帝国との凄惨なゴート戦争で東ゴート王国が崩壊するとイタリアは東ローマ帝国の支配下となり、マグナ・グラエキアにはギリシアや小アジアからビザンティン文化を携えたギリシア人たちが到来し、再度のギリシア化が進んだ。 8世紀前半の皇帝レオーン3世は聖像禁止令を発して聖像破壊運動を始め、ローマ教皇とローマ皇帝との溝が深まり始めていた。レオーン3世は南イタリアの広い範囲へ進出し、以後東ローマ帝国が南イタリアを11世紀半ばまで支配する。 この間、ランゴバルド人が北イタリアから南下し、一時は南イタリアの広い範囲を統治した。東ローマは南イタリアを徐々に奪還し、シチリアを支配するアラブ人のイタリア攻撃も撃退し、テマ制を敷いてイタリア総督領(Catepanate of Italy)を置いた。 11世紀後半、地中海に勢力を広げていたノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドは南イタリアとシチリアを征服した(ノルマン人による南イタリア征服を参照)。彼らは後にシチリア王国を築き、以後、南イタリアにギリシア人による支配が復活することはなかった。
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