セレウコス朝シリア・ローマ帝国の時代
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「古代レバノンの歴史」の記事における「セレウコス朝シリア・ローマ帝国の時代」の解説
アレクサンドロスの死後、アレクサンドロスの大帝国はディアドコイと呼ばれる後継者たちの間で分割された。フェニキア、小アジア、北シリア、メソポタミアを含む帝国東部は、セレウコス朝の統治下に置かれた。南シリアとエジプトはプトレマイオス朝の統治下に置かれ、マケドニアを含むヨーロッパは、アンティゴノス朝の統治下に置かれるようになった。とはいえ、この分割がすぐにこの地方に平和をもたらしたとはいえない。というのも、セレウコス朝とプトレマイオス朝の間で、40年間に及ぶ衝突(シリア戦争)が経済の中心として繁栄していたフェニキアを自らの併呑しようと抗争を展開していたからである。最終的には、セレウコス朝の領土となった。 セレウコス朝の最後の世紀は、無秩序と王朝内の闘争の時代であった。紀元前64年、共和政ローマによる侵攻を許す。その結果、レバノンはシリアとともにローマの領土(シリア属州)となる。パックス・ロマーナと呼ばれる時代、レバノンでは経済的・知的活動が花開いた。かつてのフェニキアの都市であったビュブロス、シドン、ティルスは、ローマの市民権を付与された。これらの都市群は、陶器・ガラス・紫の染料の生産の中心地であった。港は、シリア、イラン、インドからの物産の集積地となった。また、同時に、杉材、香水、宝石、ワイン、果物がローマに輸出された。経済的繁栄は、都市の再興と郊外の発展へとつながった。神殿や大邸宅がこの時代に多く建設されると同時に、都市間は舗装道路で結ばれた。 テオドシウス1世が395年に死去するとローマ帝国は、東西に分割された。東ローマ帝国の統治の下で、ベイルート、ティルス、シドンは、ローマ時代よりも経済的繁栄を謳歌した。しかしながら、6世紀、バールベックの神殿建築群とベイルートは、地震によって崩壊した。3万人近い住民が死亡したと推測されている。加えて、東ローマ帝国は、レバノン地域に重税を課した。また、レバノン地域は、宗教面で相違があった。5世紀から6世紀のレバノン地域の混乱は、帝国を弱体化させると同時に、アラビア半島から侵攻してきたイスラームへの統治と改宗を容易にしたのである。
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