セレウコス朝の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 06:00 UTC 版)
「セレウコス1世」の記事における「セレウコス朝の確立」の解説
イプソスの戦いの結果、セレウコスはシリア北部とアナトリアの中部を獲得した。新しい王国の首都とすべく、翌年5月22日にシリアのオロンテス河畔で新たな都市の建設がはじまった。これがアンティオキアであり、セレウコスの父アンティオコスの名にちなむものである。彼はその他にも母の名を冠したラオディケイア、妻の名を取ったアパメイアなど多くの都市を建設した。とくにティグリス河畔に築かれたセレウキアは王国の第2の都として、かつてのバビロンに代わって繁栄を極めることになる。 またシリア、セリキアなどに及ぶ広大な支配圏を72の行政区に再編し、領域内における通貨の統一を進め、長子アンティオコスにデメトリオスの娘で一時自分の寵妃であったストラトニケを与えて副王に任じ、王国東部の支配を委ねた(紀元前294年)。彼はやがてヨーロッパにも版図を拡大し、黒海とアゾフ海、カスピ海を大運河で結ぶ構想を抱いていたともいう。 紀元前288年、リュシマコスに敗れてマケドニアの王位を失ったデメトリオスが(この数年前にカッサンドロスの息子たちを滅ぼしたデメトリオスはマケドニアで王位を得ていた)、再起を図ってセレウコスのアナトリアの領土を奪おうと攻め込んできたが、これを降した。セレウコスはデメトリオスを虜囚とし、紀元前283年にデメトリオスが死ぬまで彼をシリアに監禁した。 紀元前281年、コルペディオンの戦いでセレウコスはリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征を開始するが、途上ヘレスポントス海峡の対岸リュシマキアの陣営で、マケドニア王にならんと野心を抱いた同行者のプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの息子)によって暗殺された。遺骸はシリアのセレウキアに運ばれ、この地の墓廟ニカトレイオンに葬られる。 セレウコス1世の時代、王朝はまさに全盛期だったが、その後は徐々に衰退してゆくこととなる。
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