セレウコス朝との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:57 UTC 版)
「ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス」の記事における「セレウコス朝との戦争」の解説
またリウィウスによれば、フラミニヌスのこの行動は彼の純真なギリシア人への尊敬から出ていたというが、同時に彼はギリシアを解放することによってマケドニアに対抗する形でローマの影響力をギリシアで強力にすることができるという利点も理解していたという。そしてアカイア同盟とともに彼はローマ軍を率いてスパルタとのナビス戦争に勝利し、ローマに帰還し凱旋式を挙げた。 アッタロス朝のエウメネス2世がセレウコス朝のアンティオコス3世の侵略に対しての助力を要請してきたのに応じて、紀元前192年フラミニヌスは交渉のため再び東方へ赴き、アンティオコス3世に対しこれ以上のギリシアへの干渉を中止するよう警告する。東方に広大な領土を持ち諸部族を治め「大王」を自認していたアンティオコス3世は、ローマ人であるフラミニヌスが何故ギリシアを代表して警告を発するのが理解できなかったという。交渉の末に、ローマが干渉をやめるのならセレウコス朝も手を引くと約束したが、この約束は守られず、すぐにローマはセレウコス朝と武力衝突に発展する。そして紀元前191年フラミニヌスはテルモピュライの戦いでアンティオコスを破った。
※この「セレウコス朝との戦争」の解説は、「ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス」の解説の一部です。
「セレウコス朝との戦争」を含む「ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス」の記事については、「ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス」の概要を参照ください。
- セレウコス朝との戦争のページへのリンク