スキピオ弾劾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:48 UTC 版)
「スキピオ・アフリカヌス」の記事における「スキピオ弾劾」の解説
救国の英雄として、その名声に並ぶ者のなかったスキピオであったが、元老院では彼の政敵カトが着実に主導権を握り始めていた。そして、輝かしかったスキピオの政治キャリアに水を差す出来事が起こる。 セレウコス朝との戦争後にスキピオ兄弟がローマに帰還すると、紀元前187年にルキウスがアンティオコスから不適切な金銭を受領していたという告発を護民官クィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスから受ける。これに怒ったスキピオはルキウスから彼の戦費の記録を受け取ると、元老院で破り捨ててしまった。そして「15,000タレントもの賠償金をどうやって得たかに関心を持たず、3,000タレントのみをどうやって得たかを追及するというのはどうしたものか」と告発側に反論、高圧的なやり方が告発自体を恥ずべき事にしたと見なされ、ルキウスへの告発は取り下げられた。しかしスキピオの死後に再びルキウスは告発され断罪されてしまう事になる。この一連の告発は政敵カトが裏で手を引いたものであった。 そして紀元前185年、今度はスキピオ・アフリカヌス自身がアンティオコス3世からの賄賂を受領した嫌疑で告発される。この日はザマの戦勝記念日であり、スキピオは皆で神々へ感謝を捧げようと人々を神殿の参拝に誘い、人々は告発どころかかえってザマの英雄である彼の偉業を讃えたと言う。しかしながら、この日以降は追及の手が厳しくなり、スキピオは窮地に立たされる。そして有罪宣告間近と思われたが、政治的に対立する立場であった護民官のティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル(大グラックス)が、救国の英雄である彼をこれ以上追及するのはローマ人として恥ずべき事であると嫌疑追及を取り下げるよう元老院に要請、その擁護もあって結局スキピオは無罪とされた。これ以降彼は政治の舞台を去り、代わりに彼と対立してきたカトが元老院での発言力を強めていく。 なお、スキピオは自らの窮地を救ってくれたグラックスに、5歳の末娘コルネリアが成人した暁に嫁がせる事を約束している。
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