再建と中世の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:26 UTC 版)
アレクサンドロス3世の死後、ディアドコイ戦争の中でマケドニアに割拠したカッサンドロスは、紀元前316年にテーバイの再建を認めた。紀元前293年にはアンティゴノス朝のデメトリオス1世によって包囲・占領されているが、テーバイは反旗を翻し、翌紀元前292年には再びデメトリオス1世の包囲を受けている。2回目の攻防戦ではデメトリオス1世も負傷するなどの激しい攻防が繰り広げられたが、最終的に陥落した。激しい抗戦を受けたにもかかわらず、デメトリオス1世はテーバイを穏健に扱っている。紀元前287年、デメトリオス1世はテーバイに自治を認めた。 東ローマ帝国の統治のもとで、ティーヴァは異民族の侵入からの避難場所としての役割を果たすようになった。 10世紀以降、ティーヴァは新たな絹取引の中心地となった。アテネから持ち込まれた石鹸や染料によって絹をめぐる産業が発達し、12世紀の中頃までには、首都コンスタンティノープルすら凌ぐ帝国最大の絹の生産都市となった。ティーヴァの女性はすぐれた織物の技術で知られ、中世においてティーヴァの絹織物は高い品質と評価を得て貴重なものとされた。1146年、ノルマン人による略奪を受けたが、まもなく復興した。都市の繁栄は、第四回十字軍による帝国の解体(1204年)まで続いた。 富裕なティーバは、アテネ公国のラ・ロッシュ家によって首都に選ばれたりもした。1311年にはカタルーニャ傭兵団 (Catalan Company) がこの町を占領し、彼らの国家の首都とした。1379年にはナヴァラ傭兵団 (Navarrese Company) がこの町を占領している。
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