再建と稚児人形「嘉多丸君」
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「函谷鉾」の記事における「再建と稚児人形「嘉多丸君」」の解説
かつて祇園祭の鉾(船鉾・大船鉾を除くすべての鉾)には生身の稚児が乗っていたが、21世紀初頭現在は長刀鉾を除いて稚児人形が乗せられている(祇園祭#稚児参照)。最初に稚児人形を乗せたのが、天保10年(1839年)に再建された函谷鉾であった。 当時の函谷鉾町には町人が少なく(南側が松平阿波守(徳島藩蜂須賀家)屋敷、北側が鴻池家の宅地であった)、また鉾の再建のために資金を投じたために稚児を乗せるのに必要な費用も捻出が難しかった。このため木偶による人形稚児をもって稚児とする旨を願い出て「しばらくの間」許可された。かつて函谷鉾町の住人であった大仏師の七条左京に人形作成を依頼したが、七条左京も前例がなかったために考えあぐね、御所に参上した際に左大臣一条忠香に相談したところ、忠香の子である幼少の嘉多丸(かたまる、のちの一条実良。明治天皇の皇后昭憲皇太后の実兄にあたる)をモデルとすることが許可された。人形の完成後、一条忠香は人形に「嘉多丸」と命名し(町では「嘉多丸君(かたまるぎみ)」と敬称している)、衣装や装飾品なども寄贈している。
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