再建と復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:50 UTC 版)
「ハーレーダビッドソン」の記事における「再建と復帰」の解説
1981年、AMFはハーレーダビッドソンをヴォーン・ビールス、ウィリー・G・デヴィッドソンが率いる13名の投資家グループに8,000万ドルで売却した。その後、生産はジャストインタイムのシステムを導入し、厳しく管理された。 80年代前半にハーレーダビッドソンは、日本メーカーがオートバイをアメリカに対して大規模に輸出することは、アメリカ国内メーカーを脅かすと主張した。国際貿易委員会による調査の後、レーガン大統領は1983年に700cc以上のエンジンを搭載する輸入オートバイに対して45%の関税を課した。その後ハーレーダビッドソンは日本のオートバイメーカーからの援助の申し出を拒絶した。しかし、同社は日本メーカーからの債務保証と引きかえに関税の要請を下ろす申し出を行った。 新しいハーレーダビッドソンの経営陣は、モデルを日本人向けにマッチさせようとするよりむしろ「レトロ」な味わいを利用することにした。そして、初期のモデルや当時のオーナー達が行ったカスタマイズの風合いを採用したモデルを生産した。ブレーキやフォーク、ショックアブソーバー、キャブレター、電装系及びホイールなど多くのコンポーネントが外国企業に外注され、品質は向上、技術的に改善された。そして、売上は次第に回復していった。 ハーレーダビッドソンはミズーリ出身のエンジニアであるビル・デイヴィスから「サブ・ショック」-片持ち式のリアサスペンション- の設計を買い取り、ソフテイルシリーズに採用、開発を行い、1984年にFXSTソフテイルとして発売した。 ベビーブーム世代が高齢化することでオートバイ市場が失われる可能性に応じて、ハーレーダビッドソンは1986年に高級モーターホームメーカーのホリデー・ランブラー(英語版)を買収した。しかしながら1996年にホリデー・ランブラーはモナコ・コーチ・コーポレーション(英語版)に売却された。 二重ベルトドライブを採用した「スタージス」は1980年に発表され、3年間生産された。その後、1991年に記念モデルとして再生産された。1990年までに「ファットボーイ」を導入したことで、ハーレーは再び重量級マーケット(750cc以上)でのセールスリーダーに返り咲いた[要出典]。当時の「ファットボーイ」の紹介では、銀色の塗装とその他の特徴はB-29爆撃機を模した物だとされ、「ファットボーイ」の名称は原子爆弾の「ファットマン」と「リトルボーイ」を組み合わせた物だとされた。しかしながら、Snopes.comではそれは都市伝説だとしている。 1995年にFXRに代わってダイナ(FXD)が投入された。それはFXビッグフレームにゴム製マウントを装備した物であった。FXRは特別な限定版(FXR2, FXR3 & FXR4)として1999年から2000年まで短期間復活した。 2000年、フォード・モーターはF-150ハーレーダビッドソンエディションを投入、2003年まで生産した。2004年にはスーパーデューティーハーレーダビッドソンエディションを投入、2011年まで生産した。F-150ハーレーダビッドソンエディションは2006年に生産が再開され、2012年まで続いたが、売上は上がらず2013年型では生産されなかった。同エディションはF-150の総売上の中、僅か1-2パーセントにしか過ぎなかった。 ハーレーダビッドソンはミルウォーキーのメノモニー・バレーにハーレーダビッドソンミュージアムの建設を始める。建設は2006年6月1日に始まり、総工費は75万ドル、130,000平方フィート (12,000 m2) の総面積であり、2008年に開館した。同社が生産した歴史的オートバイのコレクション及び会社の関係品が展示され、レストランやカフェ、会議スペースも存在する。
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