再建から大合併まで(1804年-1993年)
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「ノイルピーン」の記事における「再建から大合併まで(1804年-1993年)」の解説
ヨハン・ベルンハルト・キューン (Johann Bernhard Kühn) が1750年にノイルピーンで始めたのが、ビルダーボーゲン (Bilderbogen, 一枚絵) の生産であった。テーマに沿った一枚刷り印刷物で、色付けは長年、手作業であった。息子のグスタフ・キューン(ドイツ語版)(1794年-1868年)の時代には、一部では発行部数が年間300万部に達した(1870年-1871年の普仏戦争図案)。銘版には「ノイ=ルピーン、グスタフ・キューン謹製 (Neu-Ruppin, zu haben bei Gustav Kühn)」とあり、世界中で有名になった。この他にもフィリップ・エーミクケおよびヘルマン・リームシュナイダー (Philipp Oehmigke und Hermann Riemschneider) とフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルゲマン (Friedrich Wilhelm Bergemann) がビルダーボーゲンを生産していた。これら3社は同業者が当時全ドイツで60社以上もある中、長く不動の地位を保った。 1877年、オルガン製作者のアルベルト・ホレンバッハ(ドイツ語版) がノイルピーンに工房を構えた。彼の手がけたオルガンには、ベヒリーン、ブースコウ、カルヴェ、ニートヴェルダー、シュトルベックの各地区の教会、ノイルピーン旧市街の病院礼拝所 (Siechenhauskapelle) などがある。 1880年の後、ノイルピーンは鉄道支線網の中心地であり、1945年までルピーン鉄道(ドイツ語版)株式会社の運営であった。鉄道網はフェーアベリーン-パウリーネンアウエ(ドイツ語版)(1880年)、クレンメン-ベルリンとヴィットシュトック-マイエンブルク(ドイツ語版)(1899年)、ノイシュタット-ヘルツベルク線(ドイツ語版) (1905年)が放射状に延びていた。 1893年には、中心市街地の南端に州立ノイルピーン癲狂院 (Landesirrenanstalt Neuruppin) が設立された。 1905年からノイルピーンでは消火器が生産されている。特にミニマックス(ドイツ語版)社の消火器は、取り扱いが容易ですぐに広まった。 第一次世界大戦中、一個飛行中隊がノイルピーンに駐屯し、飛行場が建設された。 1921年、建築家兼住宅地設計専門家ゲオルク・ハイアー(ドイツ語版)(1880年-1944年) がギルデンハル(ドイツ語版) 地区にフライラントジードルング (Freilandsiedlung, 「緑野の住宅地」) を建設した。その目的は芸術家や美術工芸家が共に住まい、共に働くべく集い、日常用品を誰もが手にできる価格の美術工芸品として共に創作、生産するためであった。著名な芸術家や美術工芸家が集まり、1929年まで存続した。 1926年には鉄道築堤に並行し、ルピーン湖を渡る道路が完成した。こうして「ギルデンハル」と「コロニー・ヴーテノウ (Kolonie Wuthenow)」の両住宅地はノイルピーンと直接結ばれた。1929年、両住宅地はノイルピーンに編入された。また前年の1928年には「トレスコウ領地区域」(Gutsbezirk Tresckow) が編入されていた。 ナチ党の権力掌握後の1933年6月、政敵とされた80人以上もの人々、とりわけ社会民主党員、ユダヤ人、共産党員が、ナチ党突撃隊の運営する暫定収容施設に連行された。この建物は操業停止となっていた醸造所で、アルトルピーナー・アレー (Altruppiner Allee) にあった。囚人の多くが突撃隊員から拷問、または虐待を受けた。なお犠牲者を追憶するため、ソ連軍占領時代の1947年に記念碑が、また後の1981年には東ドイツ支配政党、社会主義統一党地区指導部の指令により一連の彫像が作られた。なお彫像が立つのは学校広場 (Schulplatz) で、以前の追悼碑を建て替えたものである。 1934年、軍のノイルピーン飛行場は「ノイルピーン飛行学校 (Fliegerschule Neuruppin)」として復活した。 ユダヤ系市民は約90名がナチス時代に迫害、追放、殺害された。1824年に開設したユダヤ人墓地、旧墓地 (Alter Friedhof) は、それにもかかわらず寛大に扱われた。墓碑は破壊を免れ、ドイツ国防軍の当時の連隊長パウル・フォン・ハーゼの命により、新墓地(プロテスタント墓地)に移された。2003年11月17日にストルパーシュタイン(つまずきの石)が中心市街地とアルト=ルピーンに置かれ、殺害されたユダヤ人市民を追憶している。 ナチス・ドイツのいわゆる安楽死措置、T4作戦に際し、州立ノイルピーン癲狂院はブランデンブルク殺害施設(ドイツ語版)やベルンブルク殺害施設(ドイツ語版)への中継施設となった。そのため患者数は1937年1月1日の1,971名から、1940年4月1日には4,197名に増加した。1941年には定員1,797名に対し、患者は1,147名であった。1943年、患者の大部分は、非空襲地域で病床確保を図るブラント作戦(ドイツ語版)のため他施設に移送された。病院の一部は予備軍病院として使用された。1945年以降、施設の一部は地区病院となった。2004年9月20日にルピーン総合病院 (Ruppiner Kliniken) の敷地に、つまずきの石(ドイツ語版)が6つ設置され、旧州立癲狂院の「安楽死」犠牲者を象徴している。 1945年5月1日にソ連赤軍はノイルピーンに達し、対岸から街に向け砲撃を準備していた。しかし幸い何者かが修道院教会の塔に白旗を掲げ、そして教区教会もこれに倣った。こうして都市は破壊を免れた。 ドイツ駐留ソ連軍集団は中心市街地のすぐ北の軍飛行場を使用し、市内に大きな騒音公害をもたらした。1989年には市民が大規模なデモを行い、飛行場を閉鎖する代わりにヴィットシュトック演習場(ドイツ語版)を存続するという計画に抗議した。 1950年頃まで中心部には「新劇場 (Die neue Bühne)」 という劇場があった。州ドイツ民衆劇場連盟 (Landesverband der Deutschen Volksbühne) が運営し、最高で95名が従事していた。 1951年、ノイルピーンに電気物理製作所 (Elektro-Physikalischen Werkstätten) が設立され、電子部品を生産した。これらは1970年から電気物理工業 (Elektro-Physikalische Werke, EPW) として東ドイツ最大のプリント基板生産工場となり、従業員は3,500名にまで増大した。 1952年、ノイルピーンは東ドイツ政府の郡域改革により、ポツダム県ノイルピーン郡(ドイツ語版)の郡庁所在地になった。 1990年にブランデンブルク州が新設されると、ノイルピーン郡は当面存続することとされた。
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