再度首相になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:46 UTC 版)
「ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)」の記事における「再度首相になるまで」の解説
1852年2月のラッセル内閣崩壊後、ダービー伯爵保守党政権が誕生するもホイッグ党ラッセル派、ピール派、急進派の連携で同年12月には倒閣に成功した。 しかしラッセルとパーマストンの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。女王は12月末にピール派党首アバディーン伯爵に組閣の大命を与え、ラッセルとパーマストンはその閣僚として入閣することになった。ラッセルは外務大臣兼庶民院院内総務として入閣している。 この内閣でラッセルは労働者階級にも選挙権を拡大させる選挙法改正を目指し、それに集中するため外相の職位は1853年2月に辞した。東方問題が緊迫化してきている11月に選挙法改正案を作成して閣議に提出したが、内相パーマストンが強く反対した。激しい閣内論争の末、1854年2月にラッセルは穏和化された選挙法改正法案を議会に提出したが、ロシアとの開戦が迫る国際情勢の中でアバディーンは選挙法改正法案の延期を決定した。そしてイギリスはクリミア戦争に突入していった。 自分の入閣の最大の目標を退けられたラッセルは、首相の地位を欲するようになった。アバディーンは組閣時にラッセルに次の首相の座を任せると密約していたが、1年以上たっても未だ首相の地位を譲られる気配がないことに不満を抱いたラッセルはアバディーンを失脚させようとした。その計略は失敗に終わったが、アバディーンに無理強いして庶民院議員が任命された前例がない枢密院議長に自分を任命させた。この強引な就任によりラッセルは逆にホイッグ党内の大半の支持を失った。それが尾を引いて1855年1月にアバディーンが辞職した際、組閣の大命を受けたにも関わらず組閣に失敗した。結局パーマストンが首相に就任することとなった。 その後もパーマストンとの対立は続き、第一次パーマストン内閣には入閣しなかったが、1855年3月から3か月にわたってオーストリア・ウィーンで開催されることになったクリミア戦争の和平交渉会議にイギリス代表として出席することを了承した。だがいまだセヴァストポリ要塞が陥落していなかったため、ロシアが強硬姿勢を示し会議は決裂。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストンの党内の優位が確立された。 1858年に成立したダービー伯爵保守党政権打倒のために1859年6月にパーマストンと和解し、ピール派や急進派も糾合して自由党を結成した。同月に成立した第二次パーマストン子爵内閣では外務大臣を務め、在任中の1861年に連合王国貴族「アンバーレイ子爵」および「ラッセル伯爵」に叙爵し、庶民院議員から貴族院議員に転じた。外務大臣としてはイタリア統一運動を支持したが、パーマストンに反対され介入できなかった。また生麦事件に端を発した日本の薩摩藩との武力衝突(薩英戦争)では、武力行使に積極的な役割を演じた。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をめぐっては1864年4月から6月にかけてロンドン会議を主催し、デンマークとドイツ(プロイセン・オーストリア)の講和を斡旋しようとしたが、ラッセルもパーマストンも親デンマーク的態度を取り過ぎたため会議は決裂。以降イギリスはこの問題に不介入方針をとることになった。
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