再度藩主へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:20 UTC 版)
隠居から藩主再任以降の時期の昌親は昌明と名乗っていたが、後に5代将軍綱吉から偏諱を拝領して吉品(よしのり)と改名している。本記事中、藩主再任後は吉品で統一する。 昌親(のち昌明、吉品)に家督を譲られたことで6代藩主となった綱昌は、藩政に上手く対応できず、次第に発狂して家臣を殺すようになったとも伝わる。貞享2年(1685年)には江戸城登城の義務をも怠った。この間、昌明(吉品)が代わりに参勤などを行っている。これら綱昌の行動を幕府は咎め、貞享3年(1686年)3月、福井藩は改易・廃藩とされるところだった。しかし福井藩は結城秀康以来の名門であるということから特別の配慮を受けた。江戸城に呼び出された吉品と支流一門の藩主らの前で、綱昌の強制的な隠居と、前藩主であった昌明(吉品)が所領削減となる25万石を相続することで、家督を継いで藩主に再任することとが認められた。「貞享の大法」「貞享の半知」と呼ばれるこの藩領半減以外にも、様々なペナルティが与えられた。領地宛行状などでの越前家の名称が国名の「越前少将」から都市名の「福井侍従」となった。大名行列に際し、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍を掲示するのが通例であったが、これも禁止された。江戸城の詰間も御三家などと同じ大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間に移された。
※この「再度藩主へ」の解説は、「松平昌親」の解説の一部です。
「再度藩主へ」を含む「松平昌親」の記事については、「松平昌親」の概要を参照ください。
- 再度藩主へのページへのリンク