再度後継問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:20 UTC 版)
吉品には嗣子が無く、次代候補となるのは先代・昌勝と同じ兄の系統か、御家騒動の一部であった直堅系しかなかった。吉品はこの双方を回避するため、元禄3年(1690年)、長州藩2代藩主・毛利綱広の五男・松平昌方(毛利元重、祖母が結城秀康の娘の喜佐姫(竜昌院))を養子として家督を譲ろうとしたが、家臣団の反対により元禄12年(1699年)、昌方を「多病」を理由に離別し、兄・昌勝の六男・昌邦(吉邦)を養子とした。元禄9年(1696年)12月5日、歴代福井藩主に多い、左近衛少将に任じられた。元禄15年(1702年)11月25日、幕府から葵の紋着用を再許可され、宝永元年(1704年)にはそれまでの越前家の慣例通り、将軍綱吉から偏諱を拝領し、昌明から吉品(よしのり)と改名し、同時に養子の昌邦も吉邦となった。 宝永5年(1708年)、城下にあった福井藩主の別邸・御泉水屋敷(本御泉水。現在の養浩館庭園)を改築し、同時に西隣に新御泉水屋敷を建築、自らの隠居所とした。宝永7年(1710年)7月5日、家督を譲って隠居、江戸の福井藩邸を出て、吉江藩主時代からの江戸鳥越の抱屋敷に移った。8月5日には福井に帰国。正徳元年(1711年)9月12日、72歳で死去した。法名は探源院殿順譽和祥龍山大居士。吉品の菩提寺である福井市足羽の高照山瑞源寺(臨済宗妙心寺派)は元々、吉江藩領にあった。山号は吉品の母親の高照院から由来している。のちの福井藩相続に伴い、福井藩領の名勝足羽山山麓に移され、山腹に吉品と高照院の墓が残る。現在は萩の寺として知られ、季節には観光客も多い。また福井城の御殿の一部が移築されて残っている。墓所の他、吉江藩のあった福井県鯖江市吉江の吉江神社に祀られている。
※この「再度後継問題」の解説は、「松平昌親」の解説の一部です。
「再度後継問題」を含む「松平昌親」の記事については、「松平昌親」の概要を参照ください。
- 再度後継問題のページへのリンク