ガリポリでの監禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:41 UTC 版)
「シャブタイ・ツヴィ」の記事における「ガリポリでの監禁」の解説
シャブタイ・ツヴィがコンスタンティノープルへ向けて出発したという情報はすぐさま王宮に届けられたため、大宰相キョプリュリュ・アフメト・パシャは躊躇なくツヴィの逮捕を命じた。ツヴィは数千人の信奉者に迎えられてコンスタンティノープルの港に上陸したところでオスマン帝国軍の衛兵によって身柄を拘束され、信奉者の一団も武力によって解散させられてしまった。ツヴィは数日間勾留された後、反逆罪の嫌疑で大宰相自らによる裁判にかけられることになった。 この裁判がどのように進められたのかは定かでないのだが、ツヴィに下された判決は極刑ではなく、トラキアのガリポリにある砦への流刑となり、そこで監禁されることになった。ツヴィはユダヤ暦5426年の過越祭の前日(1666年4月19日)にガリポリの砦に到着したのだが、伝えられるところによると、到着するやいなや過越しの生贄の規定に従って子羊を屠ったまではよかったのだが、それを乳で煮込んで同伴した信奉者とともに食したという。もちろんそれはハラハーで禁じられている行為であった。このころになってもツヴィは、相変わらずハラハーに背くたびに自らを祝福しては悦に入っていた。 牢獄の看守たちは寛大な態度でツヴィの奇行を受け流していたようで、賄賂を条件に訪問者との面会も許可していた。ツヴィの監禁という事態がシャブタイ派の活動に悪影響を与えるようなことはなかったようで、信者の間では、その出来事には深遠な奥義が秘められているとさえ解釈されていた。当時ヨーロッパにおいて広まっていたツヴィの武勇伝によれば、近い将来スルタンから王位を奪い取ることが既定路線であるため、牢獄内ではすでに王のごとく横柄な態度で振舞っていたそうで、実際、さながら王宮の式典のような儀式を毎日のように繰り返していたという。ツヴィの監禁は数か月にも上ったのだが、その間、「来るべき王」に謁見するために高価な貢物を携えて各地から訪れた信者、支援者の数は数千人単位にまで膨れ上がっていた。その中には多くの著名人も含まれており、ポーランド(当時)のリヴィウからはハラハーの名著『トゥレー・ザハヴ』を執筆したラビ・ダヴィド・ハ=レヴィ・セガール(1586年 - 1667年)の息子夫婦が訪問するなど、ツヴィの周囲に賑やかな話題を提供していた。 シャブタイ派の世界的な受容は衰えを知らなかった。少数派となった敵対者はそれに危機感を覚え、ツヴィに対する態度を明確にする必要に迫られた。その中のひとりに、ロンドンとハンブルクを拠点に活躍するラビ・ヤアコブ・ベン・アロン・サスポルタス(1610年 - 1698年)がいた。彼は後にシャブタイ派が起こした一連の騒動を『ツィツァト・ノベル・ツヴィ』という書物にまとめて総括した人物である。当時のツヴィがしたためた書簡なども多数収録された彼の著作は、ラビ・ヤアコブ・エムデンの要約によって知られるようになった。一方、多くのラビは、あからさまに対立したところで勝ち目がないどころか、あべこべに無用な損失を招く恐れがあることから、事態の静観を申し合わせていた。 ユダヤ暦5426年のタムーズの月の17日(西暦1666年7月20日)の断食日を前にして、ツヴィはハラハーで定められたすべての断食日の撤廃を布告し、すぐさま各地のユダヤ人社会に伝えた。その日、ツヴィは大勢の信奉者を集めて宴会を開いた。同年のアーブの月の9日の断食日にも規定を破って飲み食いにふけっていたのだが、これらの出来事はシャブタイ派の勢力が衰退した後になると省みられ、ユダヤ教の伝統に対する重大な罪として心に刻まれるようになった。 1666年9月3日(ユダヤ暦5426年のアルールの月の3日)、ポーランドからネヘミヤ・コーヘンという名前のカバリストがツヴィを訪ねてガリポリに現れた。これがシャブタイ派にとって運の尽きとなった。ネヘミヤ・コーヘンの人物像についてはほとんど知られていないのだが、コーヘンの来訪を知ったツヴィが、彼の援助によって支持基盤の強化が期待できると喜んでいたことから、おそらく東欧のカバリストの間ではそれなりに名の通った人物だったと見られている。一方のコーヘンは、ツヴィとの接見においていぶかしいものを感じていた。コーヘンの来訪はツヴィにとっては不意の出来事だった様子で、その先見性のなさゆえに、にわかにツヴィを救世主として認めることができなかったのである。彼は真相を追究するためにツヴィとの間に議論の場を設けた。3日間にわたったカバラの問答は広範囲に及び、難解を極めた。こうした試みの末、ついにコーヘンは、ツヴィが救世主ではないという結論に達した。いくつかの資料が証言するところでは、このときの議論の中心は、ツヴィにはマシァハ・ベン・ダヴィド(ユダヤ民族を聖地へと導く霊的な救世主)としての条件が満たされていないゆえ、実際にはマシァハ・ベン・ヨセフ(ユダヤ民族の聖地帰還における道筋を整えるため、マシァハ・ベン・ダヴィドよりも先に現れる救世主)ではないのかというコーヘンの主張にあった。
※この「ガリポリでの監禁」の解説は、「シャブタイ・ツヴィ」の解説の一部です。
「ガリポリでの監禁」を含む「シャブタイ・ツヴィ」の記事については、「シャブタイ・ツヴィ」の概要を参照ください。
- ガリポリでの監禁のページへのリンク