サラエボでの暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 04:23 UTC 版)
「トリフコ・グラベジュ」の記事における「サラエボでの暗殺」の解説
1914年6月28日日曜日に、フランツ・フェルディナンドとゾフィー・ホテクは電車でサラエボに到着した。 共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの総督、オスカル・ポティオレク将軍は、公式披露宴のために王室を市役所に連れて行くのを待っていた。 正面の車にはサラエボ市長であったフェヒム・チュルツィヒ (en) と市の警察長官のゲルデ博士が乗っていた。 2台目の車には、フランツ・フェルディナンド大公、ゾフィー・ホテクがオスカル・ポティオレクとカウント・フォン・ハラハと共にいた。 群衆がよく見ることができるように、車はロールバックしていた。黒手組の7人のメンバーもそのルートに沿って並んでいた。彼らはアペル岸壁に沿って間隔をあけられ、一人一人に暗殺が命じられた。暗殺を試みた最初の共謀者はムハメド・メフメドバシッチであった。オーストリア=ハンガリー銀行のそばに立っていたメフメドバシッチは車の通過を許可してしまい、行動を起こすことができなかった。その後メフメドバシッチは「警官が後ろに立っており、爆弾を投げる前に逮捕されること恐れた」と話した。 二人目のネデリュコ・チャブリノヴィッチは大公の車へ手榴弾を投げ込んだ。しかし、運転手は何か物が自分に向かって飛んでいるのを見て加速した。手榴弾はその次の三台目の車両の車輪の下で爆発し、乗員の2人、エリック・フォン・メリジとカウント・ボース・ワルデックは重傷を負った。その付近にいた約12人の観客も爆弾の破片で怪我を負った。 その日の遅く、偶然が重なり首謀者の一人であったガヴリロ・プリンツィプはフランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテク両方を殺害する事に成功した。プリンツィプとネデリュコ・チュブリロヴィッチは警察に逮捕、尋問された。 その二人は計画を誰にも言わないという誓いを守った。ムハメド・メフメドバシッチはなんとかセルビアへ逃げ出す事に成功したが、ダニロ・イリイッチが警察に自白してしまう。その後グラベジュ、ポポヴィッチ、そしてチュブリロヴィッチは反逆罪で殺害された。警察は巡回、また共犯者を特定する為に様々な人々を調べ上げた。警察がイリイッチに話しかけるとイリイッチは脱力し、持っていた豆をこぼした。 反逆罪で告発された7人の共謀者達は有罪判決を受けた。オーストリア=ハンガリーの法では20歳未満には死刑判決を出せず、グラベジュと他のほとんどの共謀者は最大20年の懲役刑を受けることになった。
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