第五次イーペル会戦とは? わかりやすく解説

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第五次イーペル会戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 12:37 UTC 版)

第五次イーペル会戦

西部戦線における協商軍の最終攻勢の地図(1918年)
戦争第一次世界大戦西部戦線
年月日1918年9月28日 - 10月2日
場所 ベルギーイーペル
結果協商国軍の勝利
交戦勢力
ベルギー
フランス共和国
イギリス
ニューファンドランド
ドイツ帝国
指導者・指揮官
アルベール1世
シリアック・ジラン英語版
ハーバード・プルーマー英語版
ジャン・マリー・デグーフランス語版
エーリヒ・ルーペンドルフ
ルーブレヒト・フォン・バイエルン
フリードリヒ・シクスト・フォン・アルミンドイツ語版
戦力
28個師団 16個師団
損害
イギリス: 4685人
ベルギー: 4500人
ニューファンドランド: 15人[1]
10000人(捕虜

第5次イーペル会戦(だいごじいーぺるかいせん、: Fifth Battle of Ypres)は、第一次世界大戦中、1918年9月下旬から10月にかけてフランス北部とベルギー南部(フランドル地方)で行われた一連の戦闘である。フランドル峰の戦い、フランドル侵攻作戦とも呼ばれる。[2]

背景

1918年の春季攻勢が頓挫し、ドイツ軍の士気は急激に低下。その上西部戦線アメリカ軍兵力は増加の一途を辿り、協商国軍とドイツ軍の兵力差は増していた。この数的優位を利用し、フランス元帥フェルディナン・フォッシュ百日攻勢英語版として知られる、ドイツ軍の全戦線への攻勢戦略を立案した。[3]この計画においてイーペル周辺のベルギーイギリスフランス軍リエージュに向け攻勢し、北側から挟み撃ちを形成することとなっていた。[4]イギリス第2軍英語版はドイツ軍の小規模な撤退を追撃し、8月18日にウットゥステンヌで戦闘を行ったが、それ以降戦闘は小康状態となった。この地域に展開する協商国軍は、9月下旬までに十分な休息を取っていた。[5]

戦闘

戦闘の経過

ベルギー軍のフランダース軍集団は3時間の砲撃を経て、9月28日午前5時30分に攻撃を開始した。[6][7][8]フランダース軍集団は当時、ベルギー軍12個師団、イギリス第2軍の10個師団、フランス第6軍の6個師団により構成されていた。イギリス軍はイーペルとパッシェンデールを結ぶ7.2kmの戦線を、ベルギー軍がそこから北のディクスミュードまでの攻撃を担当した[9]。協商国軍はすぐにドイツ軍防衛線を突破し、9km前進。1918年初頭の撤退で放棄されたパッシェンデール西部が奪還された[10]。 雨が降り始める中、夕方までにイギリス軍はコルテヴィルデ、ザントフォールデ、クライゼッケ、ベセラエレを、ベルギー軍はゾンネベーケ、ポールカッペル、シャープ・バイリー、ハウトルストの森を占領した。

戦線の南側面ではイギリス軍3個師団による小規模な攻勢が行われ、サン・イヴ、メシーヌ、そしてヴィッシェテからホレベーケまでの尾根に進軍した[11]。ドイツ軍の前線はディクスムイデからハウトハルト、ベツェラーレ、ザントフォールデ、ホレベーケまで続いていた[7]

メシネス、テルハンド、ダディゼールは9月29日に陥落し、翌日には占領地は泥沼と化したものの、イーペル周辺の高地はすべて連合軍に占領された[12]10月1日までにレイエ川左岸はコミネスまで占領され、ベルギー軍はムーズレーデからシュターデン、ディクスムイデに至る戦線の東側に展開していた。進軍は10月2日まで続けられたが、ドイツ軍の増援が到着し、更に補給も追いつかなくなっていたために攻撃は中止された。悪路のため、15,000食分の戦闘糧食がベルギーとイギリスの80機の航空機からパラシュートで投下された[13]

この戦闘で協商国軍は最大29km、戦線全体の平均で9.7km前進した。

余波

損害

イギリス軍は4685人、ベルギー軍は2000人の死者と約10000人の傷病者を出し[14]、ドイツ軍は約10000人の捕虜を出し、300丁の銃、900丁の機関銃鹵獲された[15]

その後の作戦

攻勢はコートライの戦い英語版で継続された[16]

戦闘序列

協商国軍

フランダース軍集団 (司令官: アルベール1世 参謀長: ジャン・マリー・デグーフランス語版

  • イギリス第2軍(ハーバート・プルーマー英語版大将
  • ベルギー軍(アルベール1世)
    • 南部集団(アロイス・ビービュイック中将)
      • 第12師団
      • 第8師団
      • 第11師団
      • 第6師団
    • 中央集団(ジュール・ジャク・ド・ディズミュド英語版中将)
    • 北部集団(ルイス・ベルンハイム英語版中将)
      • 第7師団
      • 第1師団
      • 第10師団
    • 残りのベルギー軍部隊は、クレルケンから海岸線までのイーザー戦線英語版を防衛した。
      • 第4師団
      • 第2師団
      • 第5師団
      • ベルギー騎兵師団
  • フランス第6軍 - 予備部隊
    • 第7軍団
      • 第41師団
      • 第164師団
      • 第128師団
    • 第34軍団
      • 第5師団
      • 第70師団
      • 第77師団
    • 第2騎兵軍団
      • 第2騎兵師団
      • 第4騎兵師団
      • 第6騎兵師団

ドイツ軍

脚注

出典

  1. ^ Nicholson 2007, p. 481.
  2. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, p. 57.
  3. ^ Sheffield 2011, pp. 315–316.
  4. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 2–3.
  5. ^ Harris & Barr 1998, p. 197.
  6. ^ Sonhaus 2011, p. 429.
  7. ^ a b Foerster 1956, p. 617.
  8. ^ AFGG 1928b, p. 15.
  9. ^ Boraston 1920, pp. 285–286.
  10. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 65–73.
  11. ^ Boraston 1920, p. 286.
  12. ^ Sheffield 2011, p. 322.
  13. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 74–94.
  14. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, p. 92.
  15. ^ Marix Evans 2002, p. 211.
  16. ^ Edmonds & Maxwell-Hyslop 1993, pp. 269–294.



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