リガ湾の戦いとは? わかりやすく解説

リガ湾の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/12 10:23 UTC 版)

リガ湾の戦い
第一次世界大戦

ロシア帝国戦艦スラヴァ(1915年頃)
1915年8月8日から8月20日
場所バルト海リガ湾
座標: 北緯57度45分00秒 東経23度30分00秒 / 北緯57.7500度 東経23.5000度 / 57.7500; 23.5000
結果 連合軍の勝利
衝突した勢力
ロシア帝国
イギリス
ドイツ帝国
指揮官
ワシリー・カニン エールハルト・シュミット
戦力
戦艦 1
装甲巡洋艦 1
駆逐艦 16
砲艦 4
機雷敷設艦 1
潜水艦 6
戦艦 4
巡洋戦艦 3
装甲巡洋艦 2
軽巡洋艦 5
魚雷艇 56
掃海艇 14
被害者数
死者・負傷者・捕虜 150
砲艦 2 撃沈
戦艦 1 損傷
駆逐艦 1 損傷
死者・負傷者 65
魚雷艇 1 撃沈
掃海艇 2 撃沈
戦艦 1 損傷

リガ湾の戦いは、1915年8月にバルト海リガ湾においてドイツ帝国大洋艦隊ロシア帝国バルチック艦隊を相手に行った海戦である。中央同盟国におけるこの戦闘の目的は、1915年春の東部戦線ゴルリッツ=タルヌフ攻勢に続き、リガ湾内のロシア艦隊を撃破し、リガを陥落させるためにドイツ軍を上陸させることであった。しかしドイツ艦隊は目的を達成できずに基地への帰還を余儀なくされ、リガは1917年9月1日にドイツ軍が陥落するまでロシアの手中にあった。

背景

1915年8月上旬、ドイツの大洋艦隊がバルト海へ移動し、リガ湾への進攻に参加することになった。その目的は、前弩級戦艦スラヴァを含むこの海域のロシア艦隊を撃破し、掃海艇ドイッチュラント英語版によりスール海峡を機雷で封鎖することであった。フランツ・フォン・ヒッパーの指揮下にあったドイツ海軍は、ナッサウ級戦艦4隻とヘルゴラント級戦艦4隻、巡洋戦艦モルトケフォン・デア・タンザイドリッツおよび多数の小型艦艇を含んでいた[1]

交戦

リガ湾の戦場図

8月8日、湾を一掃する最初の試みが行われた。前弩級戦艦ブラウンシュヴァイク英語版エラース英語版はスラヴァを牽制し、掃海艇は機雷原の通り道を作った。この間、残りのドイツ艦隊はバルト海に留まり、ロシア艦隊の他の部隊に対する防御に徹した。しかし、日没が近づくと、ドイッチュラントはスール海峡の入り口への機雷敷設が間に合わなくなり、作戦は中断された[2]

その間に、ドイツの装甲巡洋艦ローンプリンツ・ハインリヒサーレマー島の南側にあるソルベ半島にあるロシア陣地の砲撃へ向かった。数隻のロシア駆逐艦がソルベ半島沖に停泊しており、その内の1隻が砲撃にり損傷を受けた。巡洋戦艦フォン・デア・タンと軽巡洋艦コルベルクウト島の砲撃へ向かった[3]

8月16日、2回目の湾内への侵入が試みられた。弩級戦艦ナッサウ英語版ポーゼン、軽巡洋艦4隻、魚雷艇31隻が湾の防衛を突破した[3]。17日、ナッサウとポーゼンはスラヴァと砲撃戦を行い、スラヴァに3発の命中弾を与え、撤退を促した。3日後、ロシアの機雷原は取り除かれ、ドイツ艦隊は8月19日に湾に入ったが、この海域に連合軍の潜水艦がいるとの報告を受け、翌日に湾から撤退した[4]

1915年8月17日、リガ湾における駆逐艦「ノヴィク」とドイツ駆逐艦「V-99」及び「V-100」の戦闘。

作戦中、ドイツの戦艦はバルト海に留まり、リガ湾への突撃の援護を行った。8月19日の朝、モルトケはイギリスのE級潜水艦E1によって魚雷攻撃を受けた。魚雷は約180メートルの距離まで発見されなかったため回避行動が間に合わず、船首の魚雷室に被弾した。この爆発で船内の数本の魚雷が誘爆したが、沈没は免れた。8名が死亡し、船内への浸水は435トンであった。モルトケは8月23日から9月20日にかけてハンブルクブローム・ウント・フォスで修理された[5]

8月20日、ドイツ軍を乗せた4隻の大型揚陸艇がペルナウに上陸しようとしたが、ロシアの小型戦艦に撃退された。ロシアの砲艦シヴーチはドイツの軽巡洋艦アウクスブルクと8隻の駆逐艦との交戦により破壊され、損害を受けたドイツの掃海艇アルバトロスは中立国であるスウェーデンゴットランド島に上陸させた。その後、ロシアの巡洋艦リューリクが残りのドイツ部隊を撤退させた[6]

交戦艦艇

ロシア

ドイツ

脚注

  1. ^ Halpern, p. 196
  2. ^ Halpern 1995, pp. 196–197
  3. ^ a b Halpern 1995, p. 197
  4. ^ Halpern 1995, pp. 197–198
  5. ^ Staff 2006, p. 15
  6. ^ Halsey, Francis Whiting (1920). The Literary Digest History of the World War. X: The Naval Battles Off Heligoland, South America, the Dogger Bank, and Jutland.... New York: Funk & Wagnalls Company. pp. 35–37. OCLC 1101507660. https://archive.org/details/literarydigesthi10halsiala 

参考文献

外部リンク


リガ湾の戦い

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ヴェストファーレン (戦艦)」の記事における「リガ湾の戦い」の解説

1915年8月陸軍計画していたリガ攻撃援護するため、ドイツ艦隊ロシア保持するリガ湾制圧試みたその実現のため作戦の計画者たちは、戦艦スラヴァ小型砲艦駆逐艦を含む湾内ロシア海軍戦力追い払う壊滅させることを企図した。ドイツ艦隊複数機雷戦艦艇伴っており、それらはまずロシア機雷原除去し次いでロシア海軍増援来援するのを阻止するために湾北の入り口機雷敷設するという任務負っていた。動員され艦隊にはヴェストファーレンの他その同型艦3隻やヘルゴラント級戦艦4隻、巡洋戦艦フォン・デア・タンモルトケザイドリッツ複数前弩級戦艦含まれていた。艦隊指揮をとるのは中将に昇進していたフランツ・フォン・ヒッパーであった。8隻の戦艦ロシア艦隊交戦する部隊援護することになっていた。8月8日行われた最初作戦機雷掃海時間がかかりすぎたため中止された。 1915年8月16日2度目の湾への侵入試みられた。ナッサウポーゼン軽巡洋艦4隻と水雷艇31隻はどうにかロシア軍防御破った攻撃初日ドイツ掃海艇T46駆逐艦V99が沈んだ翌日ナッサウポーゼンスラヴァ交戦。3発の命中弾を与えてスラヴァ撤退させた。8月19日までにロシア機雷原処理され艦隊湾内へと入った。しかし、連合国潜水艦存在するとの報告があったことからドイツ軍翌日作戦打ち切った

※この「リガ湾の戦い」の解説は、「ヴェストファーレン (戦艦)」の解説の一部です。
「リガ湾の戦い」を含む「ヴェストファーレン (戦艦)」の記事については、「ヴェストファーレン (戦艦)」の概要を参照ください。

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