ミラン1世_(セルビア王)とは? わかりやすく解説

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ミラン1世 (セルビア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 20:03 UTC 版)

ミラン1世
Милан Обреновић IV
セルビア公
セルビア国王
在位 セルビア公:1868年6月10日 - 1882年3月6日
セルビア王:1882年3月6日 - 1889年3月6日

出生 1854年8月22日
ワラキアマラシェシュティ
死去 (1901-02-11) 1901年2月11日(46歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
配偶者 ナタリヤ・ケシュコ
子女 アレクサンダル1世
セルゲイ
家名 オブレノヴィッチ家
父親 ミロシュ・オブレノヴィッチ
母親 マリア・カタルジュ
サイン
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ミラン・オブレノヴィチ(Milan Obrenović, セルビア語キリル文字表記:Краљ Милан Обреновић, 1854年8月22日 - 1901年2月11日)は、オブレノヴィチ家セルビア公、のちにセルビア王。セルビア公としてはミラン・オブレノヴィチ4世

カラジョルジェヴィチ家のセルビア公アレクサンダル・カラジョルジェヴィチ時代、オブレノヴィッチ家が亡命していたワラキアで生まれる。早くに両親を失い、亡父ミロシュの従兄にあたるセルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチ3世のもとで育った。

1861年、ミハイロがセルビア公となると、幼いミランはパリリセ・ルイ=ル=グランで学んだ。

1868年、ミハイロが暗殺されたため、14歳で摂政のもとでセルビア公に即位。1872年より親政。彼は親オーストリア派と、親ロシア派との間でうまくバランスを取った。露土戦争後のベルリン条約で、オスマン帝国の従属から離れることができた。1882年、セルビア王を宣言。1889年に退位し、子のアレクサンダルが王位を継承したが、年少のため母ナタリヤ王妃の摂政を受けた。

先代
ミハイロ・オブレノヴィッチ3世
セルビア公
1868 - 1882
次代
王国へ昇格
先代
新設
セルビア王
1882 - 1889
次代
アレクサンダル1世



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