サラエボ事件と開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「サラエボ事件と開戦」の解説
帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年にサラエボ事件が起こり、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。この一報を耳にしたフランツ・ヨーゼフが発したとされる最初の言葉は「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」であると伝えられている。王朝の継承者たるフランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚を成して王朝の義務に反したことに対して、神が天罰を下したのだとフランツ・ヨーゼフは見なしたのである。 このような反応をみせたフランツ・ヨーゼフであるが、王朝の体面を守るためには、皇位継承者を殺されて黙っているわけにはいかなかった。また ボスニアから皇太子暗殺にセルビアが関わっている可能性があると聞いた時は 宮中儀礼を破り臣下に手を握らせ むせび泣くなどの行動も見せた。 ハンガリー首相ティサ・イシュトヴァーンは、現状のままセルビアと開戦するのはバルカン半島にまともな軍事基地を持たない帝国側が不利であるとして反対したが、皇帝以下のウィーン政府は、セルビアが十分な謝罪をしなければ軍の動員も辞さない構えを示した。帝国共通の外務大臣レオポルト・ベルヒトルトから戦争への署名を求められ、フランツ・ヨーゼフはバート・イシュルにある夏の別荘で宣戦布告の文書に署名した。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発する。7月末にフランツ・ヨーゼフはフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフに対して「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである」と語っている。 開戦の結果、フランツ・ヨーゼフは自らの権力を手放すことになった。あらゆる権力がコンラート・フォン・ヘッツェンドルフの束ねる陸軍総司令部に集中し、84歳の誕生日が近づいていたフランツ・ヨーゼフは、シェーンブルン宮殿でただ作戦についての情報を与えられるだけになってしまった。皇帝はもはや帝国の実際上の支配者ではなくなってしまったのである。 フランツ・フェルディナント大公をサラエボ事件で失った後、フランツ・フェルディナントの弟オットー・フランツ大公の長男であるカール大公(後のカール1世)が新たな帝位継承者となった。大戦の緒戦でオーストリア軍が勝利したとの一報が届いた時、カールの妃ツィタから祝いの言葉をかけられたフランツ・ヨーゼフは、「そうだ。勝利だよ。しかし、余の戦いはいつもこんな風に始まり、敗北に終わるのだよ。そして、今度はもっと悪い結果になるかもしれない。みんなは言うだろう。余が老い果てて、もはや戦うことができない、革命でも勃発すれば、一巻の終わりだろう、と。」と述べたという。
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サラエボ事件と開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「サラエボ事件と開戦」の解説
帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年にサラエボ事件が起こり、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。この一報を耳にしたフランツ・ヨーゼフが発したとされる最初の言葉は「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」であると伝えられている。王朝の継承者たるフランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚を成して王朝の義務に反したことに対して、神が天罰を下したのだとフランツ・ヨーゼフは見なしたのである。 このような反応をみせたフランツ・ヨーゼフであるが、王朝の体面を守るためには、皇位継承者を殺されて黙っているわけにはいかなかった。また ボスニアから皇太子暗殺にセルビアが関わっている可能性があると聞いた時は 宮中儀礼を破り臣下に手を握らせ むせび泣くなどの行動も見せた。 ハンガリー首相ティサ・イシュトヴァーンは、現状のままセルビアと開戦するのはバルカン半島にまともな軍事基地を持たない帝国側が不利であるとして反対したが、皇帝以下のウィーン政府は、セルビアが十分な謝罪をしなければ軍の動員も辞さない構えを示した。帝国共通の外務大臣レオポルト・ベルヒトルトから戦争への署名を求められ、フランツ・ヨーゼフはバート・イシュルにある夏の別荘で宣戦布告の文書に署名した。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発する。7月末にフランツ・ヨーゼフはフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフに対して「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである」と語っている。 開戦の結果、フランツ・ヨーゼフは自らの権力を手放すことになった。あらゆる権力がコンラート・フォン・ヘッツェンドルフの束ねる陸軍総司令部に集中し、84歳の誕生日が近づいていたフランツ・ヨーゼフは、シェーンブルン宮殿でただ作戦についての情報を与えられるだけになってしまった。皇帝はもはや帝国の実際上の支配者ではなくなってしまったのである。 フランツ・フェルディナント大公をサラエボ事件で失った後、フランツ・フェルディナントの弟オットー・フランツ大公の長男であるカール大公(後のカール1世)が新たな帝位継承者となった。大戦の緒戦でオーストリア軍が勝利したとの一報が届いた時、カールの妃ツィタから祝いの言葉をかけられたフランツ・ヨーゼフは、「そうだ。勝利だよ。しかし、余の戦いはいつもこんな風に始まり、敗北に終わるのだよ。そして、今度はもっと悪い結果になるかもしれない。みんなは言うだろう。余が老い果てて、もはや戦うことができない、革命でも勃発すれば、一巻の終わりだろう、と。」と述べたという。
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