ハプスブルクとオスマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 07:00 UTC 版)
「ハンガリー王国」の記事における「ハプスブルクとオスマン」の解説
その後1301年にアールパート朝が断絶すると選挙王制となり、1308年にナポリ王国のアンジュー家から王が出た(ハンガリー・アンジュー朝)。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなくポーランド王も兼ねるようになったが1395年に断絶した。一方、14世紀になると東方からオスマン帝国が興隆し、コソボの戦い以後バルカン半島に進出してきた。神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが1396年ニコポリスの戦いで敗北した。 15世紀にはトランシルヴァニア貴族のフニャディ家(英語版)のマーチャーシュ1世が中小貴族の圧倒的支持を受けて国王に即位し、常備軍を維持して強盛を極めた。しかし、ハンガリーはオスマン帝国の脅威に常にさらされていた。1526年のモハーチの戦いではボヘミア王を兼ねたハンガリー王ラヨシュ2世(ルドヴィク)が戦死する大敗を喫し、ヤギェウォ王家は断絶した。こうして、王冠は姻戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家が継承することになった。しかし、ボヘミアとハンガリーの貴族は、ラヨシュ2世の姉の夫であるオーストリア大公フェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)を国王に迎えることには強く抵抗した。ボヘミアではほどなくしてフェルディナントを国王に選出したが、ハンガリーではポジョニ(ブラチスラヴァ)でフェルディナントが国王に選出されたとき、すでにトランシルヴァニア出身の大領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー国王としてハンガリー貴族たちの支持を受けて選出されていた。こうしたなか、1529年、オスマン帝国によって第一次ウィーン包囲が起こっている。 ハンガリーを征服したオスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを直轄地(オスマン帝国領ハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護領とした(トランシルヴァニア公国)。ハプスブルク家はハンガリーの北部と西部を支配し(王領ハンガリー)、ハンガリーは150年近くにわたり分割支配され、両国の係争地となった。 1683年の第二次ウィーン包囲以後の大トルコ戦争を経て1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク家のものとなった。これに反発したハンガリー人貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世との間で民族解放運動(ラーコーツィの独立戦争)が戦われることとなったが、1711年には鎮圧された。
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