ハプキドー側の主張要約
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「ハプキドー」の記事における「ハプキドー側の主張要約」の解説
崔龍述(チェ・ヨンス、Choi Yong Sul)(1904年-1986年)は韓国ハプキドーの創始者。関係者からは道主(Doju)(創始道主、Grandmasterとも)と呼ばれる。 1904年(明治37年)日韓併合直前の韓国忠清北道永同郡で生まれ、8歳の頃(1912年(明治45年))日本人の菓子商人モリモトに誘拐されて日本の門司にやってきた。子供のなかったモリモトはチェを養子にするつもりだったが、チェが日本人になることをいやがり、泣き喚いて抵抗したため、諦めざるを得なかった。チェはモリモトのところを飛び出して物乞いのような生活しながら大阪まで歩いて旅をした。そこで警察に補導され、僧侶ワタナベキンタロー に身柄を預けられる。 チェは日本語がうまく出来なかったため、ほかの子供たちと問題を起こし正規の教育を受けることも出来なかった。一方でチェは寺院内にあった武道や合戦の絵図に強く心魅かれる。ワタナベはそれを見て、チェが11歳(1915年(大正4年))のとき親友で高名な武術家武田惣角にあずけることにする。 チェは「ヨシダアサオ(吉田朝男)」 という日本名を与えられて秋田 にある惣角の道場兼自宅で寝食をともにする。以来終戦の年まで惣角の身の回りに仕えると同時に、大東流合気柔術の指導助手 として全国を旅することになる。1932年(昭和7年)28歳の時には師匠の代理でハワイでの演武会 に責任者としてほか4人を連れて参加した。また戦争中は軍の委託で脱走兵を捕獲する仕事 をしていた。惣角の弟子でこれほど長く教えを受けたのは他になく、チェは3808ヶ条 ある大東流の技の全てを伝授された唯一の弟子となった。 第二次世界大戦で日本が不利になると軍はゲリラ戦の準備を始めた。高名な武術家を集め本土決戦の為の特殊部隊 を作り始めたのだ。チェはそれに志願しようとしたが、惣角はチェを簡単な外科手術のため入院させ、入隊させなかった。万が一チェが戦死すると大東流の道統が途絶えてしまうからである。チェは惣角が自分を大東流の後継者に指名したことを知った。 1945年(昭和20年)日本が降伏すると惣角は敗北を恥として、食を断って自ら命を絶つ。死の直前、惣角はチェに韓国に戻ることを命じた。もしチェが日本に残り大東流の後継者を名乗れば日本人の恨みを買い、やがて命が危ないと考えたからだった。 チェは惣角を看取ると韓国に戻り本名のチェ・ヨンスに戻る。しかし終戦の混乱期、全財産と惣角からもらった伝書の一切を盗難によって失ってしまう。チェとその家族は大邱市で米菓を焼いて生活をすることになる。 1948年(昭和23年)チェ(44歳)は飼っていた豚に食べさせる穀物の搾りかすを買うため、大邱醸造所を訪れた。食糧難の時代、長い行列が出来ており、行列に割り込んだ割り込まない、と喧嘩が始まった。チェはそれを大東流の技であざやかに収めた。それを見ていたのが醸造所の経営者の息子でそこの責任者だったソ・ボクソプである。柔道黒帯の腕前を持つソはチェの使った技に興味を持ち、すぐに呼び出すと醸造所の一室で試合を申込んだ。大東流の技に感服したソはチェに入門し、韓国での最初の弟子となった。 1951年(昭和26年)2月、大邱醸造所の2階に大韓合気柔拳術道場が開設された。韓国ハプキドーの産声である。
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