欧州統合へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)
反ユダヤ主義とシオニズムという鬼子を生んだ世紀末ウィーンであったが、後に国家を越えた共生への道を探り、欧州統合へと向かう動きが誕生したのもウィーンであった。 オーストリアの政治家リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(1894年 - 1972年)は、在日オーストリア代理公使の父ハインリヒと日本人の母青山ミツとの間に東京で生まれた。ウィーン大学で哲学を学んだ彼は、汎ヨーロッパ主義を唱え、1923年に『パンオイローパ(汎ヨーロッパ)』を著した。1926年、早くもウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれている。26ヵ国の代表が行った決議には「ヨーロッパの連帯。これは共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とする」の条項があり、これはまさに第二次世界大戦後のヨーロッパ共同体(EC)と今日の欧州連合(EU)構想の先駆けである。日本生まれのクーデンホーフ=カレルギーは、今日「EU(EC)の父」と呼ばれている。 なお、オーストリア=ハンガリー帝国の最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルク(1912年 - 2011年)もまた、汎ヨーロッパ主義的に活動した人物である。彼は幼少期に多民族国家を統治するための教育を受け、旧帝国内のあらゆる民族を愛するように育った。オットー大公は第二次世界大戦のはじめ、数千人のオーストリア・ユダヤ人を含む約15,000人の国外脱出の助力に関与した。彼はまた、ヒトラーと対峙してアメリカ大陸に亡命したことによって「ヨーロッパ人」という自覚を持つに至ったともいわれている。戦後はドイツに居住し、1979年から20年にわたって欧州議会の議員として活躍した。その間、オットー大公の関与した1989年夏の汎ヨーロッパ・ピクニックは、その後のベルリンの壁崩壊、さらには東欧革命を引き起こすこととなり、歴史の転換期においてきわめて重要な役割を担った。
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