二度の落馬負傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 19:57 UTC 版)
1986年は怪我の回復を得て、年頭からリーディング争いの上位に付けた。しかし6月21日、中京競馬第2競走のレース中、騎乗馬ワイエムヤマドリが故障を発生して転倒。馬場に投げ出された田原は後続馬に腹部を蹴られ、左腎臓および脾臓損傷という重傷を負った。左腎臓は摘出され、当初、全治には半年から1年を要するとされた。しかし田原は9月に復帰し、1日1鞍という制限を掛けて騎乗を再開。年末にはスポーツ紙に「全快宣言」を出して騎乗制限も止め、翌1987年からは再び通常通りの騎乗を始める。この年、マックスビューティと共に桜花賞、優駿牝馬(オークス)に優勝し、復活を印象付けた。 1989年にはコガネタイフウで阪神3歳ステークスを制し、GI級競走7勝目を挙げる。しかし翌1990年3月、そのコガネタイフウを駆ってのペガサスステークス競走中、進出してきたニホンピロエイブルに馬が脚を掠われ、転倒落馬。第2・3腰椎および骨盤を骨折した。およそ1ヶ月後に復帰したものの、騎座に重要な腰の怪我でもあり、以後田原は引退まで騎乗数を制限するようになった。後に「数多く勝つことよりも、馬乗りとしての自分を磨こうと考えるようになった」と語っている。
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