複数政党制への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:13 UTC 版)
「マリ共和国の歴史」の記事における「複数政党制への移行」の解説
ほかのアフリカ諸国と同じく、複数政党制採用を求める声が増えた。トラオレ政権は独立マスコミや独立政治団体の設立を許可したが、マリは民主制を採用する準備が整っていないと堅持した。1991年初、学生による反政府暴動が再び勃発したが、今度は公務員などにも支持された。4日間の反政府暴動ののち、1991年3月26日にアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ率いる軍人17人がトラオレ大統領を逮捕、憲法を停止した(1991年マリ政変(英語版))。 政変を起こした軍人は数日後には民主団体調整委員会とともに、主に文民で構成された25人の人民救済移行委員会(CTSP)を設立した。CTSPは続いて文民政府を任命した。1991年8月には国民会議で憲法が起草された(憲法は1992年1月12日の国民投票(英語版)で99%の支持を得た)。国民会議は政党の憲章と選挙法も制定し、政党は自由に結成できるとした。1992年には大統領選挙(英語版)と国民議会選挙(英語版)が行われ、ADEMA候補のアルファ・ウマル・コナレが当選して6月8日に就任した。 1997年4月マリ国民議会選挙(英語版)では行政上の問題が生じ、裁判所が選挙無効を宣言した。この行動はコナレ率いるADEMAが依然として圧倒的な力を持っていることを示し、ほかの政党が続く再選挙をボイコットすることとなった。コナレは構わずに5月11日の大統領選挙(英語版)で再選、7月21日と8月3日の2度にわたって行われた国民議会選挙(英語版)で与党ADEMAが8割以上の議席を確保した。
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