独立と周辺諸国
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1966年9月30日、ボツワナ共和国は独立を果たした。初代大統領セレツェ・カーマは独立に先立ちエリザベス女王から直接ナイトの称号を賜っている。だが、ボツワナの独立はアフリカ53カ国のうち、39番目という遅いものであった。理由は南アフリカ共和国である。 独立後も西と北で接するナミビアは南アフリカ共和国の領土、実質的な植民地として残り、白人絶対優位の政策が継続していた。南は第二次世界大戦後1990年代に至るまでアパルトヘイト政策を据え続けた南アフリカ共和国本国である。東の南ローデシアは国名からも分かるようにセシル・ローズそのままの国家運営を続けており、イギリスの意向を完全に無視していた。つまり四方を切れ目なく差別的な白人国家に囲まれていたことになる。ジンバブエの独立は1980年、ナミビアは1990年であり、第二次世界大戦後40年以上も植民地主義的な圧力を受けていたことになる。 カーマの政策は選択肢が少なかった。アパルトヘイト諸国と直接対立すれば交通路はもちろん、貿易、通信はすべて遮断されてしまう。もちろん、工業製品の輸入、ウシの輸出もアパルトヘイト諸国に頼るしかない。カーマはうまく立ち回った。アパルトヘイトには反対し、実際にアパルトヘイト諸国の独立運動を支援しながらも決定的な経済封鎖に至らぬよう細心の注意を払った。イギリスにコントロールされることなく、あくまでも関係を重視し、アフリカの他地域の独立国家との通商を進めた。さらに自ら王位継承者であったにもかかわらず、法制度の改革を通じて、首長や貴族の力を削ぐ政策を打ち出した。カーマにとって、ツワナ人にとって幸運だったのが、ジュワネングにおいて世界最大規模のダイヤモンド鉱山を発見したこと、さらに独立後の1967年に発見したことだった。独立時点ではボツワナは世界で最も貧しい10カ国に含まれており、100万頭の放牧ウシと30万人の単純労働者以外には何もなかった。イギリスの政策により国内のインフラストラクチャはなきに等しかった。しかし、もし独立以前にダイヤモンドが発見されていればセシル・ローズの時代はもちろん、第二次世界大戦後であってもボツワナは独立どころか周辺のアパルトヘイト諸国に併合されてしまっていただろう。実際に、重要な鉱物資源を産出する南部アフリカの国はすべて南アフリカ共和国の資本の傘下に組み込まれてしまっている。 新生ボツワナにとって、最初の困難は南アフリカ共和国との緊張関係である。1970年に至るとボツワナは南アフリカ共和国からの亡命者を受け入れるようになった。アパルトヘイト打倒を目指すネルソン・マンデラのアフリカ民族会議と直接協力しないように気をつけていたが、南アフリカ政府は疑惑を理由に陸軍を派遣、国境地帯の戦闘では一方的な殺戮を受ける。越境攻撃は数次に及んだが、ボツワナは反撃しなかった。 次の困難は1972年から1979年にかけて勃発した隣国ローデシアの内戦である。ボツワナに難民キャンプができ、ジンバブエ=アフリカ人民同盟とジンバブエ=アフリカ民族同盟の兵士も入り込んだ。このため、国境地帯は何度もローデシア軍の爆撃機による攻撃を受けている。1980年にジンバブエが独立するまで緊張が続いた。 南アフリカ共和国のホームランド政策には対抗しようがなかった。都市を黒人の波から守り、表面的な自治を与えることで国際社会の批判をかわそうとしたホームランド政策はツワナ人にも大きな影響を与えている。振り返ればベチュアナランドが保護領となったとき、ツワナ人の領域の南端は南アフリカ共和国に分割されていた。ツワナ人の一部、いや人口にして本国の2倍の人々が独立国となった南アフリカ国内のホームランド「ボプタツワナ」に閉じ込められていたからだ。不毛の地に押し込められ抑圧された同胞を救うためにホームランド解放をうたう野党ボツワナ人民党の主張に反論するのは困難だったろう。 しかし、社会制度の変革、経済運営、外交に関するカーマの政策は評価され続けた。1969年、1974年、1979年の総選挙ではいずれもカーマのボツワナ民主党が議会の過半数を占めた。1980年、カーマはガンにより倒れた。カーマが偉大な政治家であったかどうかは評価が分かれるだろう。しかし厳しい状況のなかでうまく立ち回ったことは確かだ。ダイヤモンド貿易で得た利益を貴族集団には配分せず、武器や兵力にも回さなかった。他のアフリカ諸国が陥った急速な工業化政策にも踏み込まなかった。その代わり、ダイヤモンド採掘、牧畜業以外の産業育成と教育、特に初等教育の充実にすべて使った。カーマの政策は功を奏し、2000年時点のボツワナの産業人口率は第三次産業が58.6%を占めるまでになっている。識字率も80%に達した。国民一人あたりの総所得は2003年時点で3530ドルである。これは、アフリカ最大の工業国、南アフリカ共和国の2750ドルをも上回っている。
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