独立とビルマ共産党及びカレン民族同盟の蜂起
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「ミャンマー内戦」の記事における「独立とビルマ共産党及びカレン民族同盟の蜂起」の解説
ミャンマーという国は周囲をひらがなのしの字を逆さにした山脈地帯に囲まれた国であり、中央の平原地帯に人口が多いビルマ族が、周囲の山岳地帯に人口は少ないが多種多様な民族が居住している。ミャンマーは1948年1月にビルマ連邦として独立。当初の与党はビルマ共産党(CBP)、アウンサン派、ウー・ヌ派の三派合同であるAFPFLだったが新生ビルマの指導者となったウー・ヌはビルマ共産党を排除しようとした。ウー・ヌ政権の反共政策に対してビルマ共産党は1948年4月2日に蜂起。同時に中央政府の仏教化政策に反発したカレン族がカレン民族同盟(KNU)とその軍事部門カレン民族解放軍(KNLA)を結成し参戦、また与党AFPFLの民兵組織であり、ビルマ国軍の前身である人民義勇軍(PVO)のうち国軍に編入されなかった部隊や国軍内のカレン族兵士や共産党シンパがビルマ共産党及びKNUに同調し離反するという内戦が勃発した。国軍からの離反は実に将兵の42%と保有兵器の45%に及んだ。また1949年に中国国内から国共内戦に敗れた中国国民党(KMT)軍部隊がシャン州に逃れ現地の少数民族と結託して同地域を占拠した(泰緬孤軍)。これらの事象が重なり1949年の段階ではウー・ヌ政権はラングーン周辺の半径10km以内のみを実効支配するだけであり、ビルマ政府ならぬラングーン政府と揶揄されていた。対するビルマ国軍も元ビルマ国民軍司令官のネ・ウィン将軍を中心に再編成され、各勢力の寄り集まりだったビルマ軍を整理し少数民族出身の幹部を放逐したうえでかつてのビルマ国民軍出身者の多くを幹部に登用して組織を立て直した。これにより1953年までにウー・ヌ政権はビルマの主要地域の回復に成功し、1960年代にはビルマと中華人民共和国の共同作戦(中緬国境作戦)により国民党残党軍はビルマ領内から掃蕩されタイに逃れた。一方でシャン州など連邦を構成する各州が自治権拡大を要求するようになった。これらの動きに対してビルマ共産党やKNLAや国民党軍との戦いの矢面に立っていた国軍は文民政権が弱腰だと不満を持つようになった。
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