独立とアメリカの覇権
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しかしフランス革命の影響を受けてサン・ドマングでは1791年にトゥサン・ルーヴェルチュールの指導下でハイチ革命が勃発し、人口の大多数を占めた黒人が白人農園主たちを追放して島の支配権を握った。一度はフランス軍によって鎮圧されたものの、後継者たちの抵抗によってサン・ドマングは1804年にハイチとして独立した。これを皮切りに、19世紀前半には大陸部は大コロンビアや中央アメリカ連邦として独立を果たしたが、これらの諸国は安定せず、分裂や内乱を繰り返した。1830年には大コロンビアは分裂してカリブ海沿岸は西のコロンビアと東のベネズエラとに分かれることとなった。1838年には各州の抗争の果てに中央アメリカ連邦議会は各州の分離独立を認め、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカが独立して中央アメリカ連邦は崩壊した。 19世紀前半に入ると奴隷制度への反感がヨーロッパで高まり、イギリス政府は西インド諸島派議員の抵抗を抑えて1833年に奴隷解放法案を通過させ、1834年に施行された。この法律によって小アンティル諸島の砂糖生産は大きな打撃を受け、徐々に縮小していった。ハイチにおいても、独立革命時の農園主たちの追放・虐殺や独立後の失政、プランテーションの小作農への分割によって砂糖生産がほぼ消滅した。こうした中、キューバにおいては砂糖生産は生き残り、逆にこの時期以降さらに発展していき、カリブの砂糖生産のかなりをキューバが占めることとなった。1860年代以降はキューバは世界最大の砂糖生産国となった。 19世紀末からは北のアメリカ合衆国の影響力が徐々に及び始めた。前世紀から続く海賊問題は1817年から開始された西インド諸島海賊掃討作戦が1825年にロベルト・コフレシを捕らえたことでほぼ終了し、以後散発的に海賊行為は起こるもののカリブ海は以前よりずっと安定性の高い海域となった。このころはカリブ海沿岸地域は経済的にはイギリスの覇権が確立していたが、アメリカが米墨戦争によって太平洋岸にいたる広大な領域を獲得し、その領域内にある太平洋岸のカリフォルニアで1849年に金が発見されてゴールドラッシュが起きると、アメリカの東西を最も早く安全につなぐルートとしてカリブ海およびパナマ地峡はがぜん注目を浴びることとなった。1855年にはアメリカ資本によってパナマ地峡鉄道が建設され、アメリカ東海岸と西海岸、さらには大西洋と太平洋をつなぐ最短ルートの一部としてカリブ海は再び重要性を増した。19世紀末には、アメリカのユナイテッド・フルーツ社などが未開発だった中央アメリカのカリブ海沿岸を開発し、広大なバナナ農園を次々と建設した。これらのプランテーションによってバナナは中央アメリカ諸国の主要輸出品となったものの、直接カリブ海沿岸の港から出荷するため中央アメリカ諸国の経済中心である太平洋岸の高地を介せず、また農園の独立性も高かったため、バナナ農園群は飛地経済を形成し、国内の相対的な経済成長にはあまり貢献しなかった。それでも、ホンジュラスのサンペドロスーラやラ・セイバのように、このバナナ農園開発によって周辺経済が成長し都市に成長するところも現れた。また、これらの農園の所有者であるユナイテッド・フルーツ社などの大企業は中央アメリカ諸国政府に対し大きな影響力を持つようになり、しばしば諸国の内政にまで介入するようになった。とくに影響力の強かったホンジュラスやグアテマラなどは、バナナ共和国と呼ばれる半従属的な状況におかれることとなった。 1898年には米西戦争が起き、勝利したアメリカはスペインからプエルトリコを獲得、キューバを保護国とした。さらにコロンビア共和国領だったパナマ地方に太平洋と大西洋を結ぶ運河を掘ることを計画し、これをコロンビアが拒否するとパナマ地方の独立運動を支援し、1903年にパナマが独立するとパナマ運河条約を結んで運河地帯をアメリカの租借地とした。 1914年にパナマ運河が開通すると、カリブ海は両大洋を結ぶ主要航路が通るようになり、交通の要衝としての重要性は以前に比べて大幅に増した。アメリカはこの運河の安全を保障するためにますますカリブ海域に深く干渉するようになり、1915年にはハイチを、1916年にはドミニカ共和国を占領してイスパニョーラ島全島を軍政下においた。この占領は1924年にドミニカ共和国で選挙が行われアメリカ軍が撤退し、1934年にはハイチからも同じく撤退するまで続いた。こうした一連のアメリカのカリブ海域における軍事介入は、上記のバナナ共和国群への介入であることからバナナ戦争とも呼ばれ、1980年代末まで沿岸各地で繰り広げられた。 20世紀を通じてカリブ海域はアメリカ合衆国の裏庭的な地域であったが、やがてキューバにおいて1959年にキューバ革命が起き、フルヘンシオ・バティスタ政権が倒されると、フィデル・カストロ率いる革命政権とアメリカの関係は徐々に悪化し、1961年のピッグス湾事件において両国関係は完全に決裂。キューバはソヴィエト連邦へと接近し、同国のミサイル基地の受け入れを決定。これによりカリブ海域は一気に東西冷戦の主戦場の一つとなり、翌1962年にはこの基地への核ミサイル配備をめぐってキューバ危機が勃発した。この危機はソ連の撤退によって終息したものの、キューバとアメリカの対立関係は続き、地域の軍事的緊張は残った。キューバへの警戒からアメリカはより一層この地方への介入の度を強め、1965年にはドミニカ共和国へ2回目のドミニカ侵攻を行い、1980年には前年のサンディニスタ革命によって左傾化したニカラグアの反政府軍であるコントラを支援してコントラ戦争を起こし、1983年には小アンティル諸島のグレナダにおいて共産主義クーデターが起こったことから軍事侵攻を行い(グレナダ侵攻)、クーデター政権を打倒した。こうした軍事介入は1989年のマヌエル・ノリエガ政権打倒を目指したパナマ侵攻が最後のもので、以後行われなくなった。 小アンティル諸島は小島が多いために独立が進んでいなかったが、1950年代に入ると世界的な植民地解放の流れから独立の動きが活発化し、1958年にはカリブ海域のイギリス領諸植民地が連邦を組んで西インド連邦が成立した。この連邦は将来の独立を念頭に置いたもので、ジャマイカやトリニダード・トバゴといった域内大国が小アンティルの小島群を支援する形を取ったが、負担の大きい両島が反発を強め、1961年に最も人口や規模の大きいジャマイカが脱退し、1962年にはトリニダード・トバゴも独立して、西インド連邦は完全に崩壊した。残された小島群は1970年代以降次々と単独で独立していくようになった。一方、政治的には分離独立が進む一方で経済的には統合がすすめられるようになっていき、これらカリブ海域の諸国を統合する経済組織として1965年にはカリブ自由貿易連合が結成され、1973年にはカリブ共同体に改組し、1994年にはカリブ諸国連合が結成された。また、小アンティル諸島のうちの旧イギリス植民地は1981年に東カリブ諸国機構を結成した。
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