独立とアメリカの覇権とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 独立とアメリカの覇権の意味・解説 

独立とアメリカの覇権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:24 UTC 版)

カリブ海」の記事における「独立とアメリカの覇権」の解説

しかしフランス革命の影響受けてサン・ドマングでは1791年トゥサン・ルーヴェルチュール指導下でハイチ革命勃発し人口大多数占めた黒人白人農園主たちを追放して島の支配権握った一度フランス軍によって鎮圧されたものの、後継者たち抵抗によってサン・ドマング1804年ハイチとして独立した。これを皮切りに19世紀前半には大陸部大コロンビア中央アメリカ連邦として独立果たしたが、これらの諸国安定せず分裂内乱繰り返した1830年には大コロンビア分裂してカリブ海沿岸は西のコロンビアと東のベネズエラとに分かれることとなった1838年には各州抗争果て中央アメリカ連邦議会各州分離独立認めグアテマラホンジュラスニカラグアコスタリカ独立して中央アメリカ連邦崩壊した19世紀前半に入ると奴隷制度への反感ヨーロッパで高まりイギリス政府西インド諸島議員抵抗抑えて1833年奴隷解放法案通過させ、1834年施行された。この法律によって小アンティル諸島砂糖生産大きな打撃を受け、徐々に縮小していった。ハイチにおいても、独立革命時の農園主たちの追放虐殺独立後の失政プランテーション小作農への分割によって砂糖生産がほぼ消滅したこうした中、キューバにおいては砂糖生産生き残り逆にこの時期以降さらに発展していき、カリブ砂糖生産のかなりをキューバ占めることとなった1860年代以降キューバ世界最大砂糖生産国となった19世紀末からは北のアメリカ合衆国影響力徐々に及び始めた前世紀から続く海賊問題1817年から開始され西インド諸島海賊掃討作戦1825年ロベルト・コフレシ捕らえたことでほぼ終了し以後散発的に海賊行為は起こるもののカリブ海以前よりずっと安定性の高い海域となったこのころカリブ海沿岸地域経済的にイギリス覇権確立していたが、アメリカ米墨戦争によって太平洋岸にいたる広大な領域獲得し、その領域内にある太平洋岸のカリフォルニア1849年に金が発見されゴールドラッシュ起きると、アメリカ東西を最も早く安全につなぐルートとしてカリブ海およびパナマ地峡はがぜん注目を浴びることとなった1855年にはアメリカ資本によってパナマ地峡鉄道建設されアメリカ東海岸西海岸さらには大西洋太平洋をつなぐ最短ルート一部としてカリブ海は再び重要性増した19世紀末には、アメリカユナイテッド・フルーツ社などが未開発だった中央アメリカカリブ海沿岸開発し広大なバナナ農園次々と建設した。これらのプランテーションによってバナナ中央アメリカ諸国主要輸出品となったものの、直接カリブ海沿岸の港から出荷するため中央アメリカ諸国経済中心である太平洋岸の高地介せず、また農園独立性高かったため、バナナ農園群は飛地経済形成し国内相対的な経済成長にはあまり貢献しなかった。それでも、ホンジュラスサンペドロスーララ・セイバのように、このバナナ農園開発によって周辺経済成長し都市成長するところも現れた。また、これらの農園所有者であるユナイテッド・フルーツ社などの大企業中央アメリカ諸国政府対し大きな影響力を持つようになり、しばしば諸国内政にまで介入するようになった。とくに影響力強かったホンジュラスグアテマラなどは、バナナ共和国呼ばれる従属的な状況おかれることとなった1898年には米西戦争起き勝利したアメリカスペインからプエルトリコ獲得キューバ保護国とした。さらにコロンビア共和国領だったパナマ地方太平洋大西洋を結ぶ運河を掘ることを計画し、これをコロンビア拒否するパナマ地方独立運動支援し1903年パナマ独立するパナマ運河条約結んで運河地帯アメリカ租借地とした。 1914年パナマ運河開通すると、カリブ海は両大洋を結ぶ主要航路が通るようになり、交通の要衝としての重要性以前比べて大幅に増したアメリカはこの運河の安全を保障するためにますますカリブ海域に深く干渉するようになり、1915年にはハイチを、1916年にはドミニカ共和国占領してイスパニョーラ島全島軍政下においた。この占領1924年ドミニカ共和国選挙が行われアメリカ軍撤退し1934年にはハイチからも同じく撤退するまで続いたこうした一連のアメリカカリブ海域における軍事介入は、上記バナナ共和国群への介入であることからバナナ戦争とも呼ばれ1980年代末まで沿岸各地繰り広げられた。 20世紀通じてカリブ海域はアメリカ合衆国の裏庭的な地域であったが、やがてキューバにおいて1959年キューバ革命起きフルヘンシオ・バティスタ政権倒されると、フィデル・カストロ率い革命政権アメリカの関係は徐々に悪化し1961年ピッグス湾事件において両国関係は完全に決裂キューバソヴィエト連邦へと接近し同国ミサイル基地受け入れ決定。これによりカリブ海域は一気東西冷戦主戦場一つとなり、翌1962年にはこの基地への核ミサイル配備めぐってキューバ危機勃発した。この危機ソ連撤退によって終息したものの、キューバとアメリカ対立関係続き地域軍事的緊張残ったキューバへの警戒からアメリカより一層この地方への介入の度を強め1965年にはドミニカ共和国2回目ドミニカ侵攻行い1980年には前年サンディニスタ革命によって左傾化したニカラグア反政府軍であるコントラ支援してコントラ戦争起こし1983年には小アンティル諸島グレナダにおいて共産主義クーデター起こったことから軍事侵攻行いグレナダ侵攻)、クーデター政権打倒した。こうした軍事介入1989年マヌエル・ノリエガ政権打倒目指しパナマ侵攻最後のもので、以後行われなくなった小アンティル諸島小島が多いために独立進んでいなかったが、1950年代に入ると世界的な植民地解放流れから独立動き活発化し、1958年にはカリブ海域のイギリス領植民地連邦組んで西インド連邦成立した。この連邦将来独立念頭に置いたもので、ジャマイカトリニダード・トバゴといった域内大国が小アンティル小島群を支援する形を取ったが、負担大き両島反発強め1961年に最も人口規模大きジャマイカ脱退し1962年にはトリニダード・トバゴ独立して西インド連邦は完全に崩壊した残され小島群は1970年代以降次々と単独独立していくようになった一方政治的に分離独立が進む一方で経済的に統合すすめられるようになっていき、これらカリブ海域の諸国統合する経済組織として1965年にはカリブ自由貿易連合結成され1973年にはカリブ共同体改組し、1994年にはカリブ諸国連合結成された。また、小アンティル諸島のうちの旧イギリス植民地1981年東カリブ諸国機構結成した

※この「独立とアメリカの覇権」の解説は、「カリブ海」の解説の一部です。
「独立とアメリカの覇権」を含む「カリブ海」の記事については、「カリブ海」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「独立とアメリカの覇権」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「独立とアメリカの覇権」の関連用語

独立とアメリカの覇権のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



独立とアメリカの覇権のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカリブ海 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS