独立した霊的指導者としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:33 UTC 版)
「ジッドゥ・クリシュナムルティ」の記事における「独立した霊的指導者としての活動」の解説
ベサントはうろたえながらも、クリシュナムルティを個人的に愛し続け、心霊的な面で尊敬を向けていた。ベサントは自身とクリシュナムルティのために高額の報酬を伴う講演旅行を手配し、二人はアメリカ・ヨーロッパを飛び回り、学校建設などに資金を出せる裕福な崇拝者たちを魅了した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}講演は大きな反響を呼び、彼は以前にも増す名声を轟かせた。もともと宗教的指導者であった人物が宗教の組織を真っ向から否定し、宗教から、そして神からも自由であれと言うのはインパクトが大きかった。[要出典]クリシュナムルティの著作による収入は莫大なものになり、彼は大実業家になりつつあった。最も親しい友で神智学のライバルだったD・ラージャゴパルが、資金面の処理、こまごました講演旅行の手配、出版事業の面倒を見た。クリシュナムルティとラージャゴパルを役員にクリシュナムルティ著作有限会社(KWINC)という信託会社が作られ、クリシュナムルティの支払いはここか後援者が行っていた。クリシュナムルティ著作権有限会社は何百万ドル、あるいは何千万ドルもの巨額の寄付金を集めた。彼は厳密には個人資産をほとんど持っていなかったが、生涯有名人や金持ちと交際し、華やかで贅沢な生活を送った。クリシュナムルティ自身は、富に囲まれた生活が必ずしも豊かなわけでなく、贅沢な生活をしなくてもかまわないと述べていた。 クリシュナムルティの思想は、ニューエイジャーたちからニューエイジの思想と合致していると受け取られ、人気と崇拝を集めた。ニューエイジに共感している物理学者・生物学者・心理学者たちとも対話を重ねた。学問の各分野は人工的に領域が設定されているが、実際はつながり合った全体であるという立場から、科学との関係を深め、ニュー・サイエンスの騎手デヴィッド・ボームと何度も対談した。とはいえ、クリシュナムルティは「愛こそすべて」と主張するよう感傷的なニューエイジの感性を嫌っており、同じくニューエイジで人気だったインド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとも距離を置いていた。 1930年代から40年代まで彼を実務面で大いに支えたD・ラージャゴパルと、その妻ロザリンド・ラージャゴパル(英語版)(旧姓 ロザリンド・ウィリアムズ)、二人の娘ラーダと家族のように暮らした。多忙なラージャゴパルに代わりラーダに父のように親しく接し、第二の父であった。クリシュナムルティはインド、イギリス、アメリカで、彼の哲学を実践する学校を作る事業に関わった。ロザリンド、アニー・ベサント、オルダス・ハクスリーと共に、カリフォルニアにHappy Valley Schoolという私立学校を設立する事業にも加わり、ロザリンドは1日18時間も働いて学校を運営した(1946年設立、のちベサント・ヒル・スクール(英語版)に改名)。クリシュナムルティは関わった学校で、公的な役割を担うことは拒み、定期的に訪問しては学生や教師たちと話した。 クリシュナムルティはその使命のために、女性と関係を持たず結婚もしないだろうと周囲に期待されていた。のちに代理娘のラーダは、クリシュナムルティは37歳の頃からロザリンドと不倫関係にあり、ラージャゴパルが真相を知ったのは30年後だったと告発した。ラーダによると、クリシュナムルティが若く美しい未亡人ナンディーニ・メータと出会い、ふたりが愛人関係にあると考えたロザリンドは、それまでの不倫関係を夫に打ち明けたという。3人の関係の真偽は確認できないが、彼らの愛憎と仕事関係はもつれ、破綻していった。公式伝記作家のメアリー・ルティエンスは、ラージャゴパル一家はクリシュナムルティを必要としていたが、彼が別離を決意するほどいじめていたと主張した。ピーター・ワシントンは、ラージャゴパル夫妻はクリシュナムルティがいなくとも金銭面で豊かであり、性格的にこうした関係を許容するほど無邪気にも愚かにも見えず、ラーダの言うような関係が30年も続いたとは考えにくい、3人は単純な三角関係ではなく過去から続く複雑な思いと仕事・思想が絡み合っていたと述べている。ラージャゴパル夫妻は1961年に離婚した。 神智学協会から独立して以後、56年間に渡って執筆、講話を続けた。組織と権威を否定したが、多くの人々を惹きつけ、「絶対的自由を達成した超人的宗教家」と考えられることもあるなど、ある意味で権威となり、組織を作り、支持者たちの支えによって独立した霊的指導者として生きた。 クリシュナムルティは、ラージャゴパルが取り仕切っていたクリシュナムルティ著作有限会社(KWINC)と1968年に決別し、仕事の管理体制を整えクリシュナムルティ財団が作られた。クリシュナムルティ著作権有限会社とクリシュナムルティ財団は資産に関して争い、1974年に決着したが、その後も告訴と反訴が20年続いた。クリシュナムルティ財団は彼の死後も著作の管理などを行い、思想の普及を目指している。
※この「独立した霊的指導者としての活動」の解説は、「ジッドゥ・クリシュナムルティ」の解説の一部です。
「独立した霊的指導者としての活動」を含む「ジッドゥ・クリシュナムルティ」の記事については、「ジッドゥ・クリシュナムルティ」の概要を参照ください。
- 独立した霊的指導者としての活動のページへのリンク