独立とワーナー・ブラザース
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「独立とワーナー・ブラザース」の解説
ヒッチコックは、バーンスタインと新しく設立した独立系映画製作会社トランスアトランティック・ピクチャーズ(英語版)で監督兼プロデューサーとして映画作りを始め、自分の作りたいものが自由に作れるようになった。その第1作はヒッチコックの最初のカラー映画となる『ロープ』である。この作品は実際に起きたレオポルドとローブによる殺人事件を基にしたパトリック・ハミルトン(英語版)の戯曲の映画化で、知的なスリルから友人を殺害した2人の青年(ジョン・ドールとファーリー・グレンジャー)を主人公にしている。原作戯曲は舞台の幕が上がってから降りるまでの実際の上演時間に即してドラマを進行させたが、ヒッチコックこれを映画で見せるため、「テン・ミニッツ・テイク」という実験的な撮影手法を試みた。この手法はカメラのマガジンに入るフィルム1巻分(1000フィート=約10分)ごとにワンショットで撮影し、ショットの切れ目を俳優や小道具のクローズアップでカモフラージュすることで、1本の映画をまるごとワンショットのように見せた。しかし、ヒッチコックはこの手法が「映画はカット割りとモンタージュが重要」だという自身の方法論を否定していたため、「無意味な狂ったアイデアだった」と述べている。作品は1948年に公開されるとさまざまな批評を集めたが、興行的には成功しなかった。 1948年、ヒッチコックはイギリスでトランスアトランティック・ピクチャーズの監督2作目として、バーグマンが主演のコスチューム・プレイ『山羊座のもとに』(1949年9月公開)を撮影したが、この作品は興行的にも批評的にも失敗し、その後トランスアトランティック・ピクチャーズは活動を停止した。この頃にヒッチコックはタレント・エージェント業を行うMCAの顧客のひとりとなった。1949年1月にはトランスアトランティック・ピクチャーズの2本を配給したワーナー・ブラザースと、自らがプロデューサーとして題材や配役などを自由に選べるという条件で、6年半の間に4本の映画を約100万ドルの報酬で作るという契約を結んだ。その第1作である『舞台恐怖症』はジェーン・ワイマンとマレーネ・ディートリッヒが主演し、同年半ばにイギリスのスタジオで撮影した。翌1950年2月に作品が公開されたが、批評家の評価は芳しくなかった。 1949年後半から1950年初めにかけて、ヒッチコックは自由に題材を選べたにもかかわらず、創造力を思うように発揮できずにいた。それでもヒッチコックは大きな富と国際的名声を築き、株や石油の油井の所有、さらにはサンタクルーズに所有する土地でワイン用のブドウを栽培して利益を得た。1950年春にはパトリシア・ハイスミスの小説『見知らぬ乗客(英語版)』を読んで感銘を受け、自分のエージェントに映画化権の交渉を指示した。ヒッチコックは脚本を書くためにダシール・ハメットに近付いたが実現はせず、次にレイモンド・チャンドラーを雇ったが意見が合わず、9月にチャンドラーを仕事から降ろし、ベン・ヘクトの助手のチェンチ・オーモンド(英語版)と新しく脚本を書き直した。『見知らぬ乗客』は列車の中で見知らぬ男(ロバート・ウォーカー)から交換殺人を持ちかけられたテニス選手(グレンジャー)が主人公のスリラー映画である。撮影は同年のクリスマスまでに終わり、1951年6月末に公開されると成功を収め、マスコミはヒッチコックのことを「サスペンス・スリラーの巨匠」と呼んだ。 この作品の完成後、ヒッチコックは再び興味をそそられる企画を見つけることができず、新しい作品が作れないのではないかと不安に駆られたが、1952年2月に妻の提案でポール・アンセルム(英語版)の戯曲『わが二つの良心(フランス語版)』が原作の『私は告白する』の脚本に取り組んだ。この作品はローマ・カトリックの司祭(モンゴメリー・クリフト)がゆるしの秘跡の守秘義務により、殺人を告白した男のことを口外することができず、自身が殺人者と疑われるという物語である。撮影は8月から10月の間に行われたが、ヒッチコックは主演のクリフトの過度な飲酒とメソッド演技が気に入らず、2人の協力関係はあまり上手くいかなかった。この作品はユーモアの要素を欠いたヒッチコックの数少ないサスペンス映画の1本だったが、後年にヒッチコックはそれを間違いと見なした。1953年2月に公開されると、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の批評家に「本来なら切れ味の鋭いナイフのようなヒッチコックの演出が重苦しく、釈然としない状況で鈍ってしまっている」と評された。 ヒッチコックはワーナー・ブラザースとの契約の最後の作品として、デイヴィッド・ダンカン(英語版)の小説『ブランブル・ブッシュ』の映画化を企画したが、まもなくそれを諦め、1952年にロンドンとニューヨークで上演されて大ヒットしたフレデリック・ノット(英語版)原作の舞台劇『ダイヤルMを廻せ!』の映画化に取りかかった。物語は若い妻(グレース・ケリー)の殺人を企て、別の人に殺させようとする元テニス選手(レイ・ミランド)が主人公で、妻が自己防衛から襲撃者を殺してしまうことで事態は複雑になる。撮影は1953年7月から9月の間に行われ、ヒッチコックは「35日間で撮り上げた」と述べている。ワーナー・ブラザースはこの作品を当時流行した3D映画として作らせたが、1954年に公開された時には3D映画の流行はすたれ、ほとんどの劇場では通常の形で上映された。
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