独立と内戦
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レオポルドヴィルには1959年には独立を求める暴動が起こり、翌1960年の独立に影響を与えた。しかし独立後はすぐにコンゴ動乱が勃発し、国内は内戦の渦に飲み込まれた。出現した中産階級も産業の壊滅とともに姿を消した。こうした中、クーデターで政権を握ったモブツは1966年、オータンティシテ(真正化)政策と名づけた文化のアフリカ化政策を実行し、レオポルドヴィルは植民地化以前にあった村のひとつの名前を取ってキンシャサと改名された。ザイールと改名されたモブツ政権下のコンゴにおいては政治経済は混乱を極め、多くの労働者が職を求めてキンシャサへと向かったため、この時期キンシャサの人口は急速に増大した。モブツ政権は1990年になると欧米からの圧力によって民主化の動きを見せるが、あくまでも実権はモブツが握り続け貧富の差はいっこうに解消されなかったため、1991年には軍の一部が反乱を起こし、これに市民が加わって全市で大暴動が勃発した。その後も情勢は安定せず、ついに1997年、第一次コンゴ戦争においてローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がキンシャサへ武力侵攻し、モブツ政権を打倒した。 1998年にはカビラ政権の内紛から第二次コンゴ戦争が起き、反政府勢力のコンゴ民主連合 (RCD) は地盤の東部から兵士を空輸してキンシャサの西へと降下させ、東西からのキンシャサ侵攻を狙ったものの、政府軍によって撃退された。その後、2001年にローラン・カビラが暗殺されると政権は息子のジョゼフ・カビラが継いだ。カビラは反政府勢力との和平を進め、2006年には選挙が実施されてカビラが当選したものの、この時の対立候補であった野党のジャン=ピエール・ベンバとの間で選挙結果を巡って武力衝突が発生し、20人以上が死亡した。決選投票でベンバはカビラに敗れ、ベンバは開票の不正を訴えてベンバ派は激しい抗議デモを繰り返したたものの、最高裁判所の抗議却下を受けて、数日後に結果の受け入れを表明した。しかし翌年、2007年3月22日には両派の私兵同士が衝突し、23日にはベンバが亡命し、24日の朝に沈静化するまで続いた。この衝突によってキンシャサでは死者155人、重傷者150人を数える惨事となった。
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独立と内戦
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1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年にベトナム戦争の一方の当事者であったアメリカ合衆国がベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。 東西冷戦と中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援するソ連の影響下に置かれた。
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独立と内戦
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「アブハジア紛争」、「アブハジア戦争(英語版)」、「南オセチア紛争」、「ジョージア内戦(英語版)」、「2004年アジャリア危機(英語版)」、「バラ革命」、および「南オセチア紛争 (2008年)」も参照 主権宣言を採択したグルジア議会は1990年3月に国家主権擁護の宣言を採択、11月には国名を「ジョージア共和国」(Republic of Georgia)に改称した。 新生ジョージアの諸政党は「独立」という目標においては一致していたが、互いに協力するよりはむしろ分立しがちだったため、諸党派間の対抗関係が深刻化し、非合法な武装集団もこれに混じったことから政治闘争はしばしば暴力的な形態をとった。1990年秋のジョージア共和国最高会議選挙はグルジア初の複数政党制による選挙となり、「円卓会議・自由ジョージア(英語版)」が大勝した。一方、ソヴィエト連邦中央は連邦派と民族派に分断され、1990年12月の人民代議員大会では独立派共和国の代議員が多数欠席する一方、連邦死守派からの発言が目立ち、そのなかで国家権力強化論がさかんに唱えられたたことからシェワルナゼが独裁体制復活への危機感を表明したうえソヴィエト連邦の外務大臣を辞任した。 1991年3月31日、国民投票で独立を承認、4月9日、ジョージアはソ連の承認を得ないまま独立を宣言した。従来の「主権宣言」がソ連の一部という前提のもとに国家の権限分配を主たる問題にしていたのに対し、「独立宣言」はソ連からの完全独立をうたうものであり、その意味合いにはおのずと大きな懸隔があった。5月26日、旧ソ連構成国15カ国中最初におこなわれた1991年ジョージア大統領選挙では急進的な民族主義者で与党指導者のズヴィアド・ガムサフルディアが86パーセントの得票率で大勝し、ジョージア初代大統領となった。1991年12月、ベラルーシのミンスクにロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国の首脳が集まり、ソヴィエト連邦の解体と独立国家共同体(CIS)の発足が合意された(ベロヴェーシ合意)。CISの発足はカザフスタンのアルマトイでおこなわれ、旧ソ連を構成する11カ国が参加したが、グルジアはそのなかでただ1つ加盟を拒否する国となった。 ガムサフルディアは、グルジア(ジョージア)の作家として有名なコンスタンティネ・ガムサフルディアの子息であり、ヘルシンキ・グループ(英語版)[要リンク修正][要曖昧さ回避]のリーダー格で古くからの反体制活動家として有名だったので当初は圧倒的な人気を博したが、大統領就任後は政権運営に権威主義的手法を多用したことから、しだいに批判が強まった。具体的には、政治犯の逮捕・虐待や新聞の検閲などであり、1991年10月8日には共産党代議員を追放している。さらに、無制限といってよい権限を大統領にあたえる法律を制定し、反対派からは「独裁者」と呼ばれた。また、彼の強い民族主義的姿勢はアブハジアと南オセチアの分離主義をかえって助長した。 ジョージアでは大統領派とテンギズ・シグア(ロシア語版)元首相やテンギズ・キトヴァニ(英語版)元国務大臣らの指導する反大統領派が衝突するようになった。とくにゴルバチョフのクリミア軟禁を端緒とする1991年8月政変(ソ連8月クーデター)に際し、ガムサフルディアがモスクワの要求を飲んだのではないかという憶測が広がったため、一挙に反ガムサフルディア運動が起こって一時ジョージアは騒然となった。ロシアのボリス・エリツィン大統領もCIS参加を拒否したガムサフルディア政権を支持しない立場を鮮明にした。混乱状態はいったん収拾されたものの12月21日には「トビリシ反乱」と呼称される内戦状態に陥り、この内乱は3週間つづいた。1992年1月6日、軍事クーデタによりガムサフルディアは失脚した。彼は激しい戦闘のなかをトビリシの最高会議を抜け出して自動車でアゼルバイジャンに移動、さらにアルメニアに逃亡した。 反ガムサフルディア派の人びとはモスクワにいた旧ソ連の外相だったエドゥアルド・シェワルナゼを指導者にまねいた。1992年2月、一院制の議会選挙がおこなわれ、シェワルナゼ議長は直接選挙で最高会議議長に当選した。1992年11月、シェワルナゼ政権は議会議長が大統領を兼ねる法律を制定した。この年の7月31日、ジョージアは国際連合に加盟し、8月3日には日本との国交も成立、1993年12月3日には独立国家共同体(CIS)に参加した。ずば抜けた政治手腕の持ち主であるシェワルナゼは、自身をジョージアに招いた軍閥の指導者たちを次々に投獄してその勢力を削ぎ、1995年までに全権を掌握した。 その一方で、かつてのグルジアの領域内でも少数民族問題が噴出した。1990年、ガムサフルディア率いるジョージア政府がグルジア語を強制したのに反発したオセット人(オセチア人)たちは南オセチア自治州をロシア領の北オセチア自治共和国への編入を求め、これに対し、ガムサフルディアの親衛隊的存在である「ジョージア人民戦線」が同自治州の州都ツヒンヴァリに通じる道路や鉄道を遮断したため、ジョージア・南オセチア間の武力衝突に発展した。翌1991年、北オセチアがロシア連邦内の共和国に昇格し、この年の9月1日、南オセチア自治州はジョージアからの独立を宣言し、南オセチア共和国となった。1992年1月19日の住民投票ではロシアへの帰属が大多数を占めた。2月、ツヒンヴァリ周辺にジョージアの砲兵と装甲車両が配備され、砲撃を開始、南オセチア紛争に発展した。紛争は1992年6月に停戦合意が成立、7月14日にはロシア・ジョージア・オセチア混成の平和維持軍が導入され武装闘争は終結した。 1992年から1994年にかけてはジョージア中央の政治抗争と民族紛争からジョージア内戦(英語版)が起こっている。国内外の民族主義者の動きに対しては、シェワルナゼも守勢に立たざるを得ない状況に追い込まれた。 1992年2月21日、ジョージアの軍事評議会は1921年にメンシェヴィキ政府によって制定されたグルジア民主共和国憲法の復活を宣言したが、アブハジアでは、アブハズ人たちはこれを自治権廃止ととらえた。1992年7月23日、アブハジア自治共和国最高会議がジョージアからの独立を訴え、「アブハジア共和国」を宣言した。これに対し、新生ジョージア軍は3,000人の部隊をアブハジアへ送り、首都スフミに進攻、内戦状態に陥った。1993年8月にはアブハジア軍がスフミを占領、ロシア領から流入したチェチェン兵らによってジョージア軍はアブハジアより駆逐された。1993年12月、ジョージア・アブハジア双方が暫定停戦に合意し、1994年4月即時停戦実施協定に調印した(アブハジア紛争)。この過程で20数万の在アブハジアのグルジア人が国内避難民として故郷を追われた。 一方、1993年の後半はジョージア内戦が再び激化した。スフミ陥落の頃、ジョージア国内に潜伏していたガムサフルディアとその支持者たちが西グルジアで反乱を起こしたためであった。12月31日、ガムサフルディアはサメグレロで死去した。ジョージア内戦その終結後も南オセチアとアブハジアの地位はしばらくの間未確定のままのこされた。 政府名首都面積人口民族宗教2016年現況ジョージア トビリシ 7.0万km2 430.5万人 グルジア人83.8%、アゼルバイジャン人6.5%、アルメニア人5.7%、ロシア人1.5%、オセット人、クルド人 キリスト教(グルジア正教83.9%、アルメニア正教3.9%、カトリック教会0.8%)、イスラーム9.9% - アジャリア自治共和国 バトゥーミ 2,900 km2 39.3万人 グルジア人93.4%(大部分がイスラームを信仰するアジャール人)、ロシア人2.4%、アルメニア人2.3% イスラーム ジョージアの直轄統治 アブハジア自治共和国 スフミ 8,665 km2 24.0万人 アブハズ人50.7%、アルメニア人19.2%、グルジア人17.4%、ロシア人9.1% キリスト教、スンナ派イスラーム 4カ国が国家承認 南オセチア自治州 ツヒンヴァリ 3,900 km2 5.1万人 オセット人64.3%、グルジア人25.0%、ロシア人2.8%、アルメニア人1.2% オセット人はキリスト教(正教)主体 4カ国が国家承認 1995年ジョージア大統領選挙(11月5日実施)では「ジョージア市民同盟」のシェワルナゼ議長が圧勝し、独立ジョージアの第2代大統領に就任、国名から「共和国」を外して「ジョージア」に改めた。大統領選挙とともに議会選挙もおこなわれ、シェワルナゼはズラブ・ジワニアらの若手政治家を抜擢した。なお、この年、シェワルナゼの主導によって8月24日に1995年ジョージア憲法を採択、10月17日に施行された。新通貨のラリの導入も、この年の9月のことである。 安定政権を手に入れたシェワルナゼは、アメリカ合衆国の支援とアゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ大統領との盟友関係のもとでパイプラインの誘致などの施策を展開した。これは、ジョージアの地政学的位置を最大限活用し、西側との連携を追求したものであった。若手政治家の積極的な起用をアピールするなど、その外交力と国際的知名度によってシェワルナゼは長期政権への期待を演出した。1995年からは、首都トビリシにグルジア史上最大規模となる至聖三者大聖堂が建設された。しかし、国内の経済的な立て直しは遅々として進めなかった。失業問題は解決されず、停電やガスの停止、断水の常態化に加え、官界の腐敗が蔓延した。 1997年、ジョージア政府はウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドヴァとともにGUAM(民主主義と経済発展のための機構)を結成した。これは、ロシア中心の再統合の動きに対し、トルコを経由してパイプライン・鉄道などを建設し、ロシアを通さずに直接西欧市場と結びつく可能性が模索されたものであった。 シェワルナゼは2000年ジョージア大統領選挙で前回をうわまわる得票率を得て再選を果たした。しかしその後は、内務省からの強い締め付けに反発する若手政治家がポスト・シュワルナゼをにらんでそのもとを離れる現象が繰り返し起こり、それが欧米ではシェワルナゼ政権に対する信用の低下につながった。 2003年11月2日の議会選挙ではシェワルナゼ大統領と野党勢力が対立した。ここでは2年後に予定されていた大統領選挙をにらんで様々な政治勢力がその影響力拡大を図り、シェワルナゼはなりふり構わぬ多数派工作に努め、与党ジョージア市民同盟に野党勢力も取り込んだ「新しいジョージア」がかろうじて勝利したものの、新与党の構成をみれば諸勢力の寄せ集めという状態であった。 そして、この選挙の開票にからんでは出口調査などによって不正選挙疑惑が発覚し、ミハイル・サーカシビリ率いる野党「ジョージア国民戦線」が選挙の不正とやり直しを主張、これについてはアメリカ合衆国も遺憾の意を表明した。11月22日、新議会が召集されたものの反対派議員はこれをボイコット、議会前には25,000人の反対派市民が集結し、議会で開会の辞が読み上げられるなか市民が議場に乱入した。シェワルナゼは議会から逃亡し、11月23日、大統領を辞任した。この無血の政変は「バラ革命」と称されている。バラ革命は、ウクライナのオレンジ革命やキルギスのチューリップ革命に影響をあたえた。 こののち、シェワルナゼ政権で外務大臣を経験した野党「ブルジャナゼ・民主主義者(英語版)」の党首ニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任、ブルジャナゼは、従来の閣僚(ナルチェマシヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシヴィリ財務相、メナガリシヴィリ外相など)を更迭した。 2004年1月のジョージア大統領選では野党統一候補のミハイル・サーカシビリが圧勝した。このとき、新しいジョージアの国旗として中世グルジア王国で多用された「白地に5つのイェルサレム十字」が採用されている。また、この年、トビリシでは至聖三者大聖堂が完成した。これはグルジアのみならず世界でも最大級の正教会の大聖堂である。 ところが、バラ革命による政権交代劇は、半独立状態にあったアジャリア自治共和国内では厳しい批判を受けた。アジャリア(アチャラ)のアスラン・アバシゼ最高会議議長はジョージアとの境界を閉鎖し、2004年3月サーカシビリ大統領の共和国入りを拒否した。サーカシビリはアジャリアを経済封鎖するに至り、双方の部隊が境界付近に集結する事態へと発展した。2004年5月、「独裁者」」とも呼ばれたアバシゼ議長は結局ロシアに出国し、アジャリアはジョージアの直轄統治を受けることとなった。 サーカシビリ政権は、イラク戦争後のイラクへの増派をただちに決定し、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュのトビリシ訪問をホストするなど、親米色を鮮明にした。その一方で、ロシアで企業家として成功したベンドゥキゼを経済大臣にすえ、フランスの駐グルジア大使を務めていた亡命グルジア知識人の末裔ズラビシヴィリを外務大臣に抜擢するなど大胆な人事をおこない、あわせて国営企業の民営化を進め、腐敗追放などによって企業活動の環境を整備した。 2004年8月、サーカシビリ率いるジョージア国軍は南オセチアのツヒンヴァリ付近に進入した。南オセチア自治州軍はロシア軍の支援を受け、両者のあいだで銃撃戦が起こった。ジョージア軍はのちに撤退し、2006年11月には南オセチア分離独立の是非を問う住民投票が実施され、発表によれば独立支持が99.9パーセントに達したという。ロシアとジョージアの対立は頂点に達し、2006年、ロシアはジョージアとモルドヴァからのワイン輸入を禁止した。 2007年11月以降、今度はジョージア国内でサーカシビリ大統領の辞任を求める大規模デモが展開され、500人以上の負傷者を出し、大統領はこれに対して非常事態宣言を発令した。2008年1月、前倒しして行われた大統領選ではサーカシビリが再選された。同年8月、ジョージア人の軍隊は南オセチアに進攻、これにロシア軍が軍事介入した(南オセチア紛争またはロシア・ジョージア戦争)。この戦争はアブハジアにも飛び火した。ロシア・ジョージア間の軍事衝突はヨーロッパ連合(EU)の仲介により停戦、ロシアは2008年8月に南オセチアとアブハジアの独立を承認したうえで、9月に軍を撤退させた。サーカシビリ政権はいっそう親欧米路線を強め、2009年8月、ジョージア政府はCISから脱退、9月にはロシアに対し外交関係断絶を通告した。 2009年2月8日、トビリシの至聖三者大聖堂において、スペインにあった旧王家ムフラニ家のダヴィッド・バグラチオン・ムフラニともう一つの王統、グルジンシスキ家のアンナ・バグラチオン・グルジンスキ王女との結婚式が、各国の外交官を含めて3000人が招待され盛大に執り行われた。旧カヘティ王国のグルジンスキ家と旧カルトリ王国のムフラニ家の王族同士の結婚は、王家の統合を意味し、海外メディアの注目を集めた。グルジア正教会の総主教イリア2世は、かねてより立憲君主制への復帰を求めてきたが、その実現にはさまざまな困難があると指摘されている。 2012年10月の議会選挙ではロシアとの関係改善をめざす野党の「ジョージアの夢」が勝利した。野党連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日の大統領選では「ジョージアの夢」推薦のギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補がサーカシビリの親欧米路線を批判し、62パーセントの得票を得て当選を果たした。11月17日の大統領に就任したマルクヴェラシヴィリはロシアとの関係改善を進める一方でヨーロッパ連合(EU)・北大西洋条約機構(NATO)への加盟をめざしており、ジョージアをめぐる情勢は依然流動的である。 アブハジアと南オセチアは、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月現在、ロシア連邦、ベネズエラ、ニカラグア、ナウルの4カ国によってそれぞれ、主権国家「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている。
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独立と内戦
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独立後、1976年10月にMPLA政権はマルクス=レーニン主義を国家の基本方針とし、翌1977年12月の第一回MPLA党大会でMPLAの名称をアンゴラ解放人民運動=労働党(MPLA-PT)に改め、MPLA-PTは一党制国家の指導政党となった。しかし、独立戦争とその後の内戦による農地やインフラストラクチャーの荒廃に加え、それまで技術者であったり、生産、流通に携わっていたポルトガル系住民のうち、35万人から45万人と実に9割以上がアンゴラを出国したこともあって経済は大混乱に陥った。このため、ネト政権は政治面に於いて社会主義建設を掲げ、軍事面に於いてソ連、キューバとの関係を強化しながらも、経済再建のために西側諸国の資本や技術の受け入れを呼びかけ、さらに比較的教育水準の高い白人やメスティーソ(白人と黒人の混血=ムラート)を優先的に登用した。こうしたネト大統領の現実的な政策は他方で党内親ソ急進派の不満を呼ぶことにもなり、1977年5月27日には親ソ派の元内相ニト・アルヴェスが反ネトクーデター未遂事件を引き起こしたが、このクーデターを未遂に留めたネトは党内の反ネト派数千人を粛清し、党内の基盤を磐石とした。この事件はこの後2年間アンゴラとソ連の関係を悪化させ、さらに同年3月のシャバ紛争の影響と相俟って、1976年中に撤退協議がなされていたキューバ軍をさらに増強させる結果となった。また、この事件で党内が固まったことが、1979年9月10日のネト死去後のジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスへの権力移譲を容易なものとした。 一方、国内勢力との内戦に於いては、当初MPLA政権は北部に基盤を持つFNLAとカビンダで抵抗を続けるカビンダ解放戦線(英語版)(FLEC)に的を絞り、両組織を支援していた国家であるザイールとは1978年に、フランスとは1979年に国交を樹立した効果もあって以後両組織はゲリラ活動を沈静化させた。しかし、南部のUNITAとの戦いは難航した。UNITAがナミビアを占領していた南アフリカと結んだ結果、ナミビア独立戦争を戦っていた南西アフリカ人民機構(SWAPO)はUNITAとの友好関係を破棄してMPLA支持を打ち出し、1976年6月にはルアンダに本拠地を移した。しかし、このことはナミビアをアパルトヘイト防衛のための戦略的防壁と判断していた南アフリカをさらに強硬な反MPLA政策に駆り立てた。 1981年にアメリカ合衆国でレーガン政権が成立すると、レーガンはソ連のアフリカ政策への対抗のために南アフリカとともにUNITAを積極的に支援し始め、南アフリカとアメリカ合衆国は共同でアンゴラからのキューバ軍撤退とナミビアの独立をリンクさせるリンケージ政策を打ち出した。MPLA政権は穏健な解決を図り、1984年にはアンゴラはSWAPOへの支援を打ち切り、南アフリカはアンゴラから軍を撤退することを協定したルサカ停戦合意(英語版)がなされたものの、この合意は実行されなかった。1985年以降の南アフリカによるアンゴラへの攻勢によって戦争は激化し、キューバ軍は最盛期には52,000人に達するほどに重ねて増派された。転機となったのは1987年から1988年にかけてのクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)であり、この戦いでアンゴラ=キューバ連合軍はUNITAを支援する南アフリカ軍を撃破したものの、その後両者共に決定的な膠着状態に陥った。この戦いの後、経済的混乱から西側に接近を望んでいたアンゴラ、戦争の泥沼化から名誉ある撤退を望んでいたキューバ、国内に於ける反アパルトヘイト運動の激化に伴う国際的孤立からの脱却を望んでいた南アフリカと、戦争の全当事者がリンケージ政策を履行する意志を示し、1988年12月22日に締結されたニューヨーク合意に基づいてキューバと南アフリカはアンゴラから撤退し、南アフリカはナミビアの独立を認めた。ナミビアは1990年にSWAPOのサム・ヌジョマ大統領の下で独立を達成した。 ニューヨーク合意の結果、当初から国際的な性格を帯びていたアンゴラ内戦はアンゴラ人同士の戦いに戻った。合意後UNITAは攻勢を強めたものの、MPLA政権はUNITAとの和平を打ち出した。和平交渉は当初ザイールのモブツの調停に担われたものの、モブツは調停に失敗したため調停役はポルトガルに担われ、1991年5月31日にMPLAのドス・サントスとUNITAのサヴィンビはビセッセ合意を調印した。翌1992年9月には18の政党が参加して選挙が行われ、大統領選挙ではMPLAのドス・サントスが49.57%、UNITAのサヴィンビが40.07%の得票を獲得し、議会選挙ではMPLAが220議席中129議席、UNITAが70議席を獲得した。しかし、選挙で敗北したことを受け入れることが出来なかったサヴィンビは結果を遵守せず、翌10月に内戦を再開させた。MPLAの方が選挙のための武装解除を積極的に進めていたこともあって、UNITAは準備の整わないMPLAに対して優位に立ち、早期からダイヤモンド鉱山を確保して軍事的優位を確立した。しかし、このようなやり方は支持者であったアメリカ合衆国の下院をしてUNITA非難決議を出させ、MPLA政権を合衆国に承認させるなどサヴィンビにとって不利な結果となった。内戦は拡大する一方、MPLAとUNITAの交渉も進み、1994年11月20日にUNITAの武装解除や国民和解政府を樹立することを定めたルサカ停戦合意(英語版)が調印されたが、ルサカ合意は実施されることなくその後も内戦は続いた。その後UNITAは1997年に国際連合から制裁がなされ、そうした国際的孤立化とともに内部分裂が進行した。一方MPLA政権はザイールが崩壊した第一次コンゴ戦争に於けるローラン・カビラ政権の成立やコンゴ共和国のドニ・サスヌゲソ政権の成立に一定の役割を果たし、地域大国として浮上するようになった。1998年12月以降MPLA政権のUNITAへの攻勢は激化した。 転機は2002年に訪れた。2002年2月22日に政府軍の攻撃によってモシコ州に滞在していたサヴィンビが戦死し、サヴィンビの死をきっかけに3月15日にMPLAとUNITAは休戦を実施、4月4日に双方は休戦協定を結び、内戦は終結した。
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