独立と内戦とは? わかりやすく解説

独立と内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:12 UTC 版)

キンシャサ」の記事における「独立と内戦」の解説

レオポルドヴィルには1959年には独立求め暴動起こり、翌1960年独立影響与えた。しかし独立後はすぐにコンゴ動乱勃発し国内内戦の渦に飲み込まれた。出現した中産階級産業壊滅とともに姿を消したこうした中、クーデター政権握ったモブツ1966年、オータンティシテ(真正化)政策名づけ文化アフリカ化政策を実行しレオポルドヴィル植民地化以前にあったのひとつの名前を取ってキンシャサ改名された。ザイール改名されモブツ政権下のコンゴにおいては政治経済混乱極め多く労働者が職を求めてキンシャサへと向かったため、この時期キンシャサ人口急速に増大したモブツ政権1990年になると欧米からの圧力によって民主化動き見せるが、あくまでも実権モブツ握り続け貧富の差いっこうに解消されなかったため、1991年には軍の一部反乱起こし、これに市民加わって全市で大暴動勃発したその後情勢安定せず、ついに1997年第一次コンゴ戦争においてローラン・カビラ率いコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がキンシャサ武力侵攻し、モブツ政権打倒した。 1998年にはカビラ政権内紛から第二次コンゴ戦争起き反政府勢力コンゴ民主連合 (RCD) は地盤東部から兵士空輸しキンシャサ西へ降下させ、東西からのキンシャサ侵攻狙ったものの、政府軍によって撃退された。その後2001年ローラン・カビラ暗殺される政権息子ジョゼフ・カビラ継いだカビラ反政府勢力との和平進め2006年には選挙実施されカビラ当選したものの、この時の対立候補であった野党ジャン=ピエール・ベンバとの間で選挙結果巡って武力衝突発生し20人以上が死亡した決選投票でベンバはカビラ敗れ、ベンバは開票の不正を訴えてベンバ派は激し抗議デモ繰り返したたものの、最高裁判所抗議却下受けて数日後結果受け入れ表明した。しかし翌年2007年3月22日には両派の私兵同士衝突し23日にはベンバが亡命し24日の朝に沈静化するまで続いた。この衝突によってキンシャサでは死者155人、重傷150人を数え惨事となった

※この「独立と内戦」の解説は、「キンシャサ」の解説の一部です。
「独立と内戦」を含む「キンシャサ」の記事については、「キンシャサ」の概要を参照ください。


独立と内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:55 UTC 版)

ラオス」の記事における「独立と内戦」の解説

1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立達成した独立後、ラオスでは右派中立派左派パテート・ラーオ)によるラオス内戦長期にわたり続いたベトナム戦争にも巻き込まれ北ベトナムベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年ベトナム戦争一方当事者であったアメリカ合衆国ベトナムから撤退1974年、三派連合によるラオス民族連合政府成立したが、1975年南ベトナムベトナム共和国)の首都サイゴン北ベトナム軍により陥落すると、同年12月連合政府王政廃止宣言社会主義国ラオス人民民主共和国樹立した東西冷戦中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国内政・外交両面ベトナムと、それを支援するソ連影響下に置かれた。

※この「独立と内戦」の解説は、「ラオス」の解説の一部です。
「独立と内戦」を含む「ラオス」の記事については、「ラオス」の概要を参照ください。


独立と内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)

グルジアの歴史」の記事における「独立と内戦」の解説

アブハジア紛争」、「アブハジア戦争英語版)」、「南オセチア紛争」、「ジョージア内戦英語版)」、「2004年アジャリア危機英語版)」、「バラ革命」、および「南オセチア紛争 (2008年)」も参照 主権宣言採択したグルジア議会1990年3月国家主権擁護宣言採択11月には国名を「ジョージア共和国」(Republic of Georgia)に改称した新生ジョージア諸政党は「独立」という目標においては一致していたが、互いに協力するよりはむしろ分立しがちだったため、諸党派間の対抗関係が深刻化し非合法な武装集団もこれに混じったことから政治闘争はしばし暴力的な形態をとった。1990年秋のジョージア共和国最高会議選挙グルジア初の複数政党制による選挙となり、「円卓会議・自由ジョージア英語版)」が大勝した一方ソヴィエト連邦中央連邦派と民族派分断され1990年12月人民代議員大会では独立派共和国代議員多数欠席する一方連邦死守派からの発言目立ちそのなかで国家権力強化論がさかんに唱えられたたことからシェワルナゼ独裁体制復活へ危機感表明したうえソヴィエト連邦外務大臣辞任した1991年3月31日国民投票独立承認4月9日ジョージアソ連承認を得ないまま独立宣言した従来の「主権宣言」がソ連一部という前提のもとに国家権限分配主たる問題にしていたのに対し、「独立宣言」はソ連からの完全独立をうたうものであり、その意味合いにはおのずと大きな懸隔があった。5月26日旧ソ連構成国15国中最初におこなわれた1991年ジョージア大統領選挙では急進的な民族主義者与党指導者ズヴィアド・ガムサフルディア86パーセント得票率大勝しジョージア初代大統領となった1991年12月ベラルーシミンスクロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国の首脳集まりソヴィエト連邦解体独立国家共同体CIS)の発足合意された(ベロヴェーシ合意)。CIS発足カザフスタンアルマトイおこなわれ旧ソ連構成する11カ国が参加したが、グルジアそのなかでただ1つ加盟拒否するとなったガムサフルディアは、グルジアジョージア)の作家として有名なコンスタンティネ・ガムサフルディアの子息であり、ヘルシンキ・グループ(英語版)[要リンク修正][要曖昧さ回避]のリーダー格で古くからの反体制活動家として有名だったので当初圧倒的な人気博したが、大統領就任後政権運営権威主義的手法多用したことから、しだいに批判強まった具体的には、政治犯逮捕虐待新聞検閲などであり、1991年10月8日には共産党代議員追放している。さらに、無制限といってよい権限大統領にあたえる法律制定し反対派からは「独裁者」と呼ばれたまた、彼の強い民族主義的姿勢アブハジア南オセチア分離主義をかえって助長した。 ジョージアでは大統領派とテンギズ・シグア(ロシア語版元首相やテンギズ・キトヴァニ(英語版)元国務大臣らの指導する大統領派が衝突するようになった。とくにゴルバチョフクリミア軟禁端緒とする1991年8月政変ソ連8月クーデター)に際しガムサフルディアモスクワ要求飲んだではないかという憶測広がったため、一挙にガムサフルディア運動起こって一時ジョージア騒然となった。ロシアボリス・エリツィン大統領CIS参加拒否したガムサフルディア政権支持しない立場鮮明にした。混乱状態はいったん収拾されたものの12月21日には「トビリシ反乱」と呼称される内戦状態に陥り、この内乱は3週間つづいた1992年1月6日軍事クーデタによりガムサフルディア失脚した。彼は激し戦闘のなかをトビリシ最高会議抜け出して自動車アゼルバイジャン移動、さらにアルメニア逃亡した。 反ガムサフルディア派の人びとモスクワにいた旧ソ連外相だったエドゥアルド・シェワルナゼ指導者にまねいた1992年2月一院制議会選挙おこなわれシェワルナゼ議長直接選挙最高会議議長当選した1992年11月シェワルナゼ政権議会議長大統領兼ね法律制定したこの年7月31日ジョージア国際連合加盟し8月3日には日本との国交成立1993年12月3日には独立国家共同体CIS)に参加したずば抜けた政治手腕持ち主であるシェワルナゼは、自身ジョージア招いた軍閥指導者たちを次々投獄してその勢力削ぎ1995年までに全権掌握した。 その一方で、かつてのグルジア領域内でも少数民族問題噴出した1990年ガムサフルディア率いジョージア政府グルジア語強制したのに反発したオセット人オセチア人)たちは南オセチア自治州ロシア領の北オセチア自治共和国への編入求め、これに対しガムサフルディア親衛隊存在である「ジョージア人民戦線」が同自治州州都ツヒンヴァリ通じ道路鉄道遮断したため、ジョージア南オセチア間の武力衝突発展した。翌1991年北オセチアロシア連邦内の共和国昇格しこの年9月1日南オセチア自治州ジョージアからの独立宣言し南オセチア共和国となった1992年1月19日住民投票ではロシアへ帰属大多数占めた2月ツヒンヴァリ周辺ジョージア砲兵装甲車両配備され砲撃開始南オセチア紛争発展した紛争1992年6月停戦合意成立7月14日にはロシア・ジョージア・オセチア混成平和維持軍導入され武装闘争終結した1992年から1994年にかけてはジョージア中央の政治抗争民族紛争からジョージア内戦英語版)が起こっている。国内外民族主義者動きに対しては、シェワルナゼ守勢に立たざるを得ない状況追い込まれた。 1992年2月21日ジョージア軍事評議会1921年メンシェヴィキ政府によって制定されグルジア民主共和国憲法復活宣言したが、アブハジアでは、アブハズ人たちはこれを自治権廃止とらえた1992年7月23日アブハジア自治共和国最高会議ジョージアからの独立訴え、「アブハジア共和国」を宣言した。これに対し新生ジョージア軍は3,000人の部隊アブハジア送り首都スフミ進攻内戦状態陥った1993年8月にはアブハジア軍がスフミ占領ロシア領から流入したチェチェン兵らによってジョージア軍アブハジアより駆逐された。1993年12月、ジョージア・アブハジア双方暫定停戦合意し1994年4月即時停戦実施協定調印したアブハジア紛争)。この過程20数万の在アブハジアグルジア人国内避難民として故郷追われた。 一方1993年後半ジョージア内戦が再び激化したスフミ陥落の頃、ジョージア国内に潜伏していたガムサフルディアとその支持者たちが西グルジア反乱起こしたためであった12月31日ガムサフルディアはサメグレロで死去したジョージア内戦その終結後南オセチアアブハジア地位しばらくの間未確定のままのこされた。 政府首都面積人口民族宗教2016年現況ジョージア トビリシ 7.0km2 430.5万人 グルジア人83.8%、アゼルバイジャン人6.5%、アルメニア人5.7%、ロシア人1.5%、オセット人クルド人 キリスト教グルジア正教83.9%、アルメニア正教3.9%、カトリック教会0.8%)、イスラーム9.9% - アジャリア自治共和国 バトゥーミ 2,900 km2 39.3万人 グルジア人93.4%(大部分イスラーム信仰するアジャール人)、ロシア人2.4%、アルメニア人2.3% イスラーム ジョージア直轄統治 アブハジア自治共和国 スフミ 8,665 km2 24.0万人 アブハズ人50.7%、アルメニア人19.2%、グルジア人17.4%、ロシア人9.1% キリスト教スンナ派イスラーム 4カ国が国家承認 南オセチア自治州 ツヒンヴァリ 3,900 km2 5.1万人 オセット人64.3%、グルジア人25.0%、ロシア人2.8%、アルメニア人1.2オセット人キリスト教正教主体 4カ国が国家承認 1995年ジョージア大統領選挙11月5日実施)では「ジョージア市民同盟」のシェワルナゼ議長圧勝し独立ジョージア第2代大統領就任国名から「共和国」を外してジョージア」に改めた大統領選挙とともに議会選挙おこなわれシェワルナゼズラブ・ジワニアらの若手政治家抜擢した。なお、この年シェワルナゼ主導によって8月24日1995年ジョージア憲法採択10月17日施行された。新通貨のラリ導入も、この年9月のことである。 安定政権手に入れたシェワルナゼは、アメリカ合衆国支援アゼルバイジャンヘイダル・アリエフ大統領との盟友関係のもとでパイプライン誘致などの施策展開した。これは、ジョージア地政学的位置最大限活用し西側との連携追求したものであった若手政治家積極的な起用アピールするなど、その外交力と国際的知名度によってシェワルナゼ長期政権へ期待演出した。1995年からは、首都トビリシグルジア史最大規模となる至聖三者大聖堂建設された。しかし、国内経済的な立て直し遅々として進めなかった。失業問題解決されず、停電ガス停止断水常態化加え官界腐敗蔓延した1997年ジョージア政府ウクライナ呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドヴァとともにGUAM民主主義経済発展のための機構)を結成した。これは、ロシア中心再統合動き対しトルコ経由してパイプライン鉄道などを建設しロシア通さず直接西欧市場結びつく可能性模索されたものであったシェワルナゼ2000年ジョージア大統領選挙前回うわまわる得票率得て再選果たした。しかしその後は、内務省からの強い締め付け反発する若手政治家がポスト・シュワルナゼをにらんでそのもと離れる現象繰り返し起こり、それが欧米ではシェワルナゼ政権対す信用低下つながった2003年11月2日議会選挙ではシェワルナゼ大統領野党勢力対立した。ここでは2年後予定されていた大統領選挙にらんで様々な政治勢力その影響拡大図りシェワルナゼなりふり構わぬ多数派工作努め与党ジョージア市民同盟野党勢力取り込んだ新しジョージア」がかろうじて勝利したものの、新与党構成をみれば諸勢力寄せ集めという状態であった。 そして、この選挙開票からんで出口調査などによって不正選挙疑惑発覚しミハイル・サーカシビリ率い野党ジョージア国民戦線」が選挙の不正とやり直し主張、これについてはアメリカ合衆国遺憾の意表明した11月22日、新議会召集されたものの反対派議員はこれをボイコット議会前に25,000人の反対派市民集結し議会開会の辞読み上げられるなか市民議場乱入したシェワルナゼ議会から逃亡し11月23日大統領辞任した。この無血政変は「バラ革命」と称されている。バラ革命は、ウクライナオレンジ革命キルギスチューリップ革命影響あたえたこののちシェワルナゼ政権外務大臣経験した野党ブルジャナゼ民主主義者(英語版)」の党首ニノ・ブルジャナゼ暫定大統領就任ブルジャナゼは、従来閣僚(ナルチェマシヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシヴィリ財務相、メナガリシヴィリ外相など)を更迭した。 2004年1月ジョージア大統領選では野党統一候補ミハイル・サーカシビリ圧勝した。このとき、新しジョージアの国旗として中世グルジア王国多用された「白地5つイェルサレム十字」が採用されている。また、この年トビリシでは至聖三者大聖堂完成した。これはグルジアのみならず世界で最大級正教会大聖堂である。 ところが、バラ革命による政権交代劇は、半独立状態にあったアジャリア自治共和国内では厳しい批判受けたアジャリア(アチャラ)のアスラン・アバシゼ最高会議議長ジョージアとの境界閉鎖し2004年3月サーカシビリ大統領共和国入り拒否したサーカシビリアジャリア経済封鎖するに至り双方部隊境界付近に集結する事態へと発展した2004年5月、「独裁者」」とも呼ばれたアバシゼ議長結局ロシア出国しアジャリアジョージア直轄統治を受けることとなったサーカシビリ政権は、イラク戦争後イラクへの増派をただちに決定しアメリカ合衆国ジョージ・W・ブッシュトビリシ訪問ホストするなど、親米色を鮮明にした。その一方でロシア企業家として成功したベンドゥキゼを経済大臣にすえ、フランスの駐グルジア大使務めていた亡命グルジア知識人末裔ズラビシヴィリを外務大臣抜擢するなど大胆な人事おこないあわせて国営企業民営化進め腐敗追放などによって企業活動環境整備した2004年8月サーカシビリ率いジョージア国軍は南オセチアツヒンヴァリ付近に進入した南オセチア自治州軍はロシア軍支援を受け、両者のあいだで銃撃戦起こったジョージア軍はのちに撤退し2006年11月には南オセチア分離独立是非を問う住民投票実施され発表によれば独立支持99.9パーセント達したという。ロシアジョージア対立頂点達し2006年ロシアジョージアモルドヴァからのワイン輸入禁止した2007年11月以降今度ジョージア国内でサーカシビリ大統領辞任求め大規模デモ展開され500人以上の負傷者出し大統領はこれに対して非常事態宣言発令した2008年1月前倒しして行われた大統領選ではサーカシビリ再選された。同年8月ジョージア人軍隊南オセチア進攻、これにロシア軍軍事介入した(南オセチア紛争またはロシア・ジョージア戦争)。この戦争アブハジアにも飛び火した。ロシア・ジョージア間の軍事衝突ヨーロッパ連合EU)の仲介により停戦ロシア2008年8月南オセチアアブハジア独立承認したうえで、9月に軍を撤退させた。サーカシビリ政権はいっそう親欧米路線強め2009年8月ジョージア政府CISから脱退9月にはロシア対し外交関係断絶通告した2009年2月8日トビリシ至聖三者大聖堂において、スペインにあった旧王家ムフラニ家のダヴィッド・バグラチオン・ムフラニもう一つ王統、グルジンシスキ家のアンナ・バグラチオン・グルジンスキ王女との結婚式が、各国外交官含めて3000人が招待され盛大に執り行われた。旧カヘティ王国のグルジンスキ家と旧カルトリ王国のムフラニ家の王族同士結婚は、王家統合意味し海外メディア注目集めたグルジア正教会総主教イリア2世は、かねてより立憲君主制への復帰求めてきたが、その実現にはさまざまな難がある指摘されている。 2012年10月議会選挙ではロシアとの関係改善をめざす野党の「ジョージアの夢」が勝利した野党連合代表で実業家ビジナ・イヴァニシヴィリ首相に指名された。そして、2013年10月27日大統領選では「ジョージアの夢推薦ギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補サーカシビリの親欧米路線批判し62パーセント得票得て当選果たした11月17日大統領就任したマルクヴェラシヴィリはロシアとの関係改善進め一方でヨーロッパ連合EU)・北大西洋条約機構NATO)への加盟めざしており、ジョージアをめぐる情勢依然流動的である。 アブハジア南オセチアは、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月現在、ロシア連邦ベネズエラニカラグアナウルの4カ国によってそれぞれ主権国家アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている。

※この「独立と内戦」の解説は、「グルジアの歴史」の解説の一部です。
「独立と内戦」を含む「グルジアの歴史」の記事については、「グルジアの歴史」の概要を参照ください。


独立と内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 22:23 UTC 版)

アンゴラの歴史」の記事における「独立と内戦」の解説

独立後、1976年10月MPLA政権マルクス=レーニン主義国家基本方針とし、翌1977年12月第一回MPLA党大会MPLAの名称をアンゴラ解放人民運動=労働党(MPLA-PT)に改め、MPLA-PTは一党制国家指導政党となった。しかし、独立戦争その後内戦による農地インフラストラクチャー荒廃加えそれまで技術者であったり、生産流通携わっていたポルトガル住民のうち、35万人から45万人と実に9割以上がアンゴラ出国したこともあって経済大混乱陥ったこのためネト政権政治面に於いて社会主義建設掲げ軍事面に於いてソ連キューバとの関係強化しながらも、経済再建のために西側諸国資本技術受け入れ呼びかけ、さらに比較教育水準の高い白人メスティーソ白人と黒人混血ムラート)を優先的に登用した。こうしたネト大統領現実的な政策他方党内親ソ急進派の不満を呼ぶことにもなり、1977年5月27日には親ソ派の元内相ニト・アルヴェスが反ネトクーデター未遂事件引き起こしたが、このクーデター未遂留めネト党内の反ネト数千人を粛清し、党内基盤磐石とした。この事件この後2年アンゴラソ連の関係を悪化させ、さらに同年3月シャバ紛争影響相俟って1976年中に撤退協議なされていたキューバ軍をさらに増強させる結果となったまた、この事件党内固まったことが、1979年9月10日ネト死去後ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスへの権力移譲容易なものとした。 一方国内勢力との内戦に於いては当初MPLA政権北部基盤を持つFNLAカビンダ抵抗続けカビンダ解放戦線英語版)(FLEC)に的を絞り、両組織支援していた国家であるザイールとは1978年に、フランスとは1979年国交樹立した効果もあって以後組織ゲリラ活動沈静化させた。しかし、南部UNITAとの戦い難航したUNITAナミビア占領していた南アフリカ結んだ結果ナミビア独立戦争戦っていた南西アフリカ人民機構(SWAPO)はUNITAとの友好関係破棄してMPLA支持打ち出し1976年6月にはルアンダ本拠地移した。しかし、このことはナミビアアパルトヘイト防衛のための戦略的防壁判断していた南アフリカをさらに強硬なMPLA政策駆り立てた1981年アメリカ合衆国レーガン政権成立すると、レーガンソ連アフリカ政策への対抗のために南アフリカとともにUNITA積極的に支援し始め南アフリカアメリカ合衆国共同アンゴラからのキューバ軍撤退ナミビア独立リンクさせるリンケージ政策打ち出したMPLA政権穏健な解決図り1984年にはアンゴラSWAPOへの支援打ち切り南アフリカアンゴラから軍を撤退することを協定したルサカ停戦合意英語版)がなされたものの、この合意実行されなかった。1985年以降南アフリカによるアンゴラへの攻勢によって戦争激化しキューバ軍最盛期には52,000人に達するほどに重ねて増派された。転機となったのは1987年から1988年にかけてのクイト・クアナヴァレの戦い英語版)であり、この戦いでアンゴラキューバ連合軍UNITA支援する南アフリカ軍撃破したものの、その後両者共に決定的な膠着状態に陥った。この戦いの後経済的混乱から西側接近望んでいたアンゴラ戦争泥沼化から名誉ある撤退望んでいたキューバ国内に於ける反アパルトヘイト運動激化に伴う国際的孤立からの脱却望んでいた南アフリカと、戦争の全当事者リンケージ政策履行する意志示し1988年12月22日締結されニューヨーク合意基づいてキューバ南アフリカアンゴラから撤退し南アフリカナミビア独立認めたナミビア1990年SWAPOサム・ヌジョマ大統領の下で独立達成したニューヨーク合意結果当初から国際的な性格帯びていたアンゴラ内戦アンゴラ同士戦い戻った合意UNITA攻勢強めたものの、MPLA政権UNITAとの和平打ち出した和平交渉当初ザイールモブツ調停担われたものの、モブツ調停失敗したため調停役はポルトガル担われ1991年5月31日MPLAドス・サントスUNITAのサヴィンビはビセッセ合意調印した。翌1992年9月には18政党参加して選挙が行われ、大統領選挙ではMPLAドス・サントスが49.57%、UNITAのサヴィンビが40.07%の得票獲得し議会選挙ではMPLA220議席129議席UNITA70議席獲得した。しかし、選挙敗北したことを受け入れることが出来なかったサヴィンビは結果遵守せず、翌10月内戦再開させた。MPLAの方が選挙のための武装解除積極的に進めていたこともあって、UNITA準備整わないMPLAに対して優位に立ち、早期からダイヤモンド鉱山確保して軍事的優位確立した。しかし、このようなやり方支持者であったアメリカ合衆国下院をしてUNITA非難決議を出させ、MPLA政権合衆国承認させるなどサヴィンビにとって不利な結果となった内戦拡大する一方MPLAUNITA交渉進み1994年11月20日UNITA武装解除国民和解政府樹立することを定めたルサカ停戦合意英語版)が調印されたが、ルサカ合意実施されることなくその後内戦続いたその後UNITA1997年国際連合から制裁がなされ、そうした国際的孤立とともに内部分裂進行した一方MPLA政権ザイール崩壊した第一次コンゴ戦争に於けるローラン・カビラ政権成立コンゴ共和国ドニ・サスヌゲソ政権成立一定の役割果たし地域大国として浮上するようになった1998年12月以降MPLA政権UNITAへの攻勢激化した転機2002年訪れた2002年2月22日政府軍の攻撃によってモシコ州滞在していたサヴィンビが戦死しサヴィンビの死きっかけ3月15日MPLAUNITA休戦実施4月4日双方休戦協定を結び、内戦終結した

※この「独立と内戦」の解説は、「アンゴラの歴史」の解説の一部です。
「独立と内戦」を含む「アンゴラの歴史」の記事については、「アンゴラの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「独立と内戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「独立と内戦」の関連用語

独立と内戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



独立と内戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのキンシャサ (改訂履歴)、ラオス (改訂履歴)、グルジアの歴史 (改訂履歴)、アンゴラの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS