地政学的位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:10 UTC 版)
地質学上、カレリア地峡はバルト楯状地(en:Baltic Shield)の岩底の南端に位置している。地峡の中央部の一部は14000年ほど前に最終氷期(ワイクゼル氷期(英語版))の終焉期の氷河作用によってできたと考えられており、この時周囲の氷床にせき止められた大型湖の底が形成されたと考えられている。バルト氷湖(英語版)での氷河作用は、バルト海の早期高水位階を作った。地峡の土地の隆起はサルパウセルカ(英語版)周辺で続き、巨大な島と多くの湖を形成した。紀元前12650年頃、厳しい北極環境によって特徴付けられ、永久凍土層と疎らな植生が生まれた。その後ステップツンドラになりこの土地は徐々に変えられていった。紀元前11000年頃、気候の温暖化と、湿度上昇が始まり、マツやトウヒが生えるようになっていった。 紀元前9000年ごろまでバルト海はその全域がアンキュルス湖という巨大な湖であったが、アンキュルス湖が北海とつながり、バルト海に変わり、多くの低地の湖は氷河によって削られたくぼみに孤立した。また、ラドガ湖も単一の湖として分かたれた。陸の隆起によって紀元前5000年になると新しくできたサイマー湖の水流出部がヴオクシ川となり、ラドガ湖に流れるようになった。ラドガ湖が限界を超えると、水は低地の湖やヴオクシ川周辺に流れ込むようになり、更にラドガ湖の水はヘインヨキ近郊であふれ出しヴィボルグ近郊へ流れ出すようになった。さらに紀元前3100-2400年頃になるとラドガ湖からヴィボルグに流れていたネヴァ川はバルト海へと注ぎ込むようになった。ラドガ湖の水位は徐々に徐々に15m-18mほど下がったとされ、現在は海面水位から4-5mの高さである。水位が下がることによって地峡の湖は更に細切れになっていった。しかしながら、ヴオクシ川は未だヴィボルグ湾とのつながりを保つ重要な地域であり、紀元前12世紀までは湖となっていたと考えられる。湖のつながりは続く陸地の隆起で1世紀ごろまでにはなくなったとされている。 1818年、スヴァント湖(現在のスホドルスコイェ湖(英語版))からラドガ湖に向けて水を流す予定で運河を掘った。しかし、運河が意図せず侵食されて、タイパレーンヨキに流れ込み、現在のブルナヤ川(英語版)になっている。タイパレーンヨキにはスヴァント湖の水が注ぎ込み、スヴァント湖では水位が7m下がった。元々、スヴァント湖の水はキヴィニエミ水道を通ってヴオクシ川側に流れ込んでいたが、この結果によって水路は干上がった。1857年、干上がった後に運河を掘った。そうすると流れはヴオクシ川からスヴァント湖に逆流し始め、急流となり、キヴィニエミ水道は航行不可能になってしまった。1857年までスヴァント湖とタイパレーンヨキはヴオクシ川の南部の小さい入江になっていた。しかし、運河を掘った結果、ラドガ湖に水が流れ込み、北部の入江やプリオゼルスクあたりでは水位が4m上昇した。また、それぞれが別の流域として独立した。
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