ソ連邦崩壊後のジョージアとロシアとは? わかりやすく解説

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ソ連邦崩壊後のジョージアとロシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 19:18 UTC 版)

ジョージアとロシアの関係」の記事における「ソ連邦崩壊後のジョージアとロシア」の解説

1991年ソ連崩壊後グルジア・ソビエト社会主義共和国グルジアSSR)を前身とするジョージアは、ロシア主導する独立国家共同体CIS)への不参加表明したCISへの参加拒否旧ソ連のうちバルト三国のぞけばジョージアただ1国であった。これは主としてジョージア・ロシア間の政治的対立よるものであったが、一方でジョージア国民(グルジア人)たちの旺盛な独立心由来するものであった1991年5月26日旧ソ連構成国15国中最初におこなわれたジョージアの大統領選挙では急進的な民族主義者ズヴィアド・ガムサフルディア86パーセント得票率大勝し初代大統領となった1991年12月ベラルーシミンスクロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国の首脳集まりソ連邦解体CIS発足合意された(ベロヴェーシ合意)。CIS発足式カザフスタンアルマトイおこなわれ旧ソ連構成国11カ国が参加している。 新生ジョージアグルジア)はこのようにロシアからの自立目指しのであるが、一方では、国内ジョージアからの独立掲げ勢力存在していた。南オセチア自治州では、グルジア政府当時)が1990年グルジア語使用同地多数派であるオセット人にも強要したことからオセット人たちが反発し自治共和国への昇格、さらに、ロシア連邦北オセチアとの統合要求して紛争発展した当初この紛争ロシア共和国当時)のエリツィン政権直接関与しなかったが、しかしロシア北オセチア難民流入したことで、ロシアにとっても重要問題となったまた、ソ連中央政府弱体化したため、ロシアがそれに代わる仲介者役割果たそうとした。1991年以降ロシアジョージアの間で交渉重ねられ同年3月エリツィンガムサフルディア会談によりある程度合意はなされたが、やがて両者間の立場開いていった。アブハジアでは1980年代後葉からグルジアからの分離独立運動展開されスフミでも暴動なども起こっているが、1992年7月アブハジア独立宣言おこないアブハジア戦争英語版)に発展したしかしながらアブハズ人アブハジアにおいては必ずしも多数民族ではなく、実に全体の2割以下を占めるにすぎなかった。ジョージア軍は、ロシア領から流入したチェチェン兵らに敗走し1993年8月スフミ陥落同年12月停戦なされた。このとき、20数万グルジア人たちが国内避難民IDP)として郷里追われている。 ガムサフルディアまた、その強権的政治姿勢原因反対者武力闘争におよぶ事態となり、ロシアボリス・エリツィン大統領も、CIS参加拒否したガムサフルディア政権支持しない宣言したガムサフルディア失脚したが、上述スフミ陥落のころガムサフルディア派の蜂起によってジョージア内戦状態となったソ連解体後の旧ソ連諸国大きく2つ分裂した1つは、親ロシア派グループであり、カザフスタンベラルーシのほか、資源ロシアに頼るアルメニアキルギスタンタジキスタン含まれる。もう1つは、ロシア支配からの脱却図り主として欧米接近した反ロシア派のグループであり、ウクライナウズベキスタンアゼルバイジャンモルドヴァなどが含まれるジョージア後者属したが、後者グループ1997年それぞれの国の頭文字取ってGUUAM」を組織している。 1992年ガムサフルディア失脚後政権の座についたのは、かつてソ連外相務めたグルジア人エドゥアルド・シェワルナゼであったシェワルナゼは、ジョージアに一応の秩序取り戻しロシア仲介により1992年6月南オセチアとの停戦協定結んだ。さらにロシアとの関係改善重視し1992年6月ロシアとの国交樹立しロシア支持得て7月には国連加盟果たした1993年CIS参加し1995年11月大統領選挙圧勝の末第2代大統領就任してからは、若手登用し憲法採択し新通貨「ラリ」を導入するなど国家体制整備して安定政権めざした。 しかし1990年代後半以降は、シェワルナゼロシアとの対立関係を強めてゆく。まずアメリカ合衆国支援アゼルバイジャンヘイダル・アリエフ大統領との盟友関係のもとでパイプライン誘致などの施策展開した。これは、ジョージア地政学的位置最大限活用し西側諸国との連携追求したものであった。しかし、シェワルナゼ政権による国内経済的な立て直し遅々として進めなかった。失業問題いっこうに解決されず、停電ガス停止断水常態化加え官界腐敗蔓延した。これは、シェワルナゼ時代ジョージアロシアからのエネルギー制裁をもっと顕著に受けてきたためでもある。ジョージアおよびアルメニアはほとんどのエネルギーロシア依存してきたのであるが、この時期ロシア側が電力供給きわめて低い状態で制限したころから長年にわたり、電力不足状態が続いたのである地方はまった通電しない場所すら多かった1997年シェワルナゼ政権は、ウクライナ政府呼びかけに応じてアゼルバイジャン・モルドヴァとともに上述GUAM民主主義経済発展のための機構)を結成した。これは、ロシア中心再統合動き対しトルコ経由してパイプライン鉄道などを建設しロシア通さず直接西欧市場結びつく可能性模索されたものであった1990年代にあってはロシア周囲にはアゼルバイジャン国内の「ナゴルノ・カラバフ共和国」、ジョージア国内のアブハジア共和国」「南オセチア共和国」、モルドヴァ共和国内の沿ドニエストル共和国」という4つの「未承認国家」すなわち国際的な承認得られていない国家存在し大きな意味をもった。これらの地域は、「本国」からの分離独立めざして本国」と対立し、それが紛争発展するロシア支援得て本国に対して軍事的に一定の成果得て、さらにロシアが「本国に対してさまざまな条件突き付けたうえで停戦仲介し事実上独立獲得している諸点において相似の関係にあったまた、4地域それぞれ政府議会軍隊・警察・独自通貨などといった国家の要件といわれるものを一通り備えており、実際に選挙国民投票などもおこなわれてほとんど国家体裁整えている一方で、「本国」の主権がまったく及んでいない点でも共通する性格備えていた。1990年代後半以降似通った歴史的経験経て、共通の課題をかかえる4つ未承認国家は、しばしば「4カ国外会議」をひらいている。その際外相会議議場警護していたのがロシア兵だったことは示唆的である。

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