ソ連邦崩壊後のジョージアとロシア
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「ジョージアとロシアの関係」の記事における「ソ連邦崩壊後のジョージアとロシア」の解説
1991年のソ連崩壊後、グルジア・ソビエト社会主義共和国(グルジアSSR)を前身とするジョージアは、ロシアの主導する独立国家共同体(CIS)への不参加を表明した。CISへの参加拒否は旧ソ連のうちバルト三国をのぞけばジョージアただ1国であった。これは主としてジョージア・ロシア間の政治的対立によるものであったが、一方ではジョージア国民(グルジア人)たちの旺盛な独立心に由来するものであった。 1991年5月26日、旧ソ連構成国15カ国中最初におこなわれたジョージアの大統領選挙では急進的な民族主義者のズヴィアド・ガムサフルディアが86パーセントの得票率で大勝して初代大統領となった。1991年12月、ベラルーシのミンスクにロシア、ウクライナ、ベラルーシ3カ国の首脳が集まり、ソ連邦解体とCISの発足が合意された(ベロヴェーシ合意)。CIS発足式はカザフスタンのアルマトイでおこなわれ、旧ソ連構成国11カ国が参加している。 新生ジョージア(グルジア)はこのようにロシアからの自立を目指したのであるが、一方では、国内にジョージアからの独立を掲げる勢力も存在していた。南オセチア自治州では、グルジア政府(当時)が1990年にグルジア語使用を同地の多数派であるオセット人にも強要したことからオセット人たちが反発し、自治共和国への昇格、さらに、ロシア連邦の北オセチアとの統合を要求して紛争に発展した。当初この紛争にロシア共和国(当時)のエリツィン政権は直接関与しなかったが、しかしロシア領北オセチアに難民が流入したことで、ロシアにとっても重要問題となった。また、ソ連中央政府が弱体化したため、ロシアがそれに代わる仲介者の役割を果たそうとした。1991年春以降、ロシアとジョージアの間で交渉が重ねられ、同年3月のエリツィン=ガムサフルディア会談によりある程度の合意はなされたが、やがて両者間の立場は開いていった。アブハジアでは1980年代後葉からグルジアからの分離独立運動が展開され、スフミでも暴動なども起こっているが、1992年7月、アブハジア独立宣言をおこない、アブハジア戦争(英語版)に発展した。しかしながら、アブハズ人はアブハジアにおいては必ずしも多数民族ではなく、実に全体の2割以下を占めるにすぎなかった。ジョージア軍は、ロシア領から流入したチェチェン兵らに敗走し、1993年8月にスフミが陥落、同年12月に停戦がなされた。このとき、20数万のグルジア人たちが国内避難民(IDP)として郷里を追われている。 ガムサフルディアはまた、その強権的な政治姿勢が原因で反対者が武力闘争におよぶ事態となり、ロシアのボリス・エリツィン大統領も、CIS参加を拒否したガムサフルディア政権を支持しないと宣言した。ガムサフルディアは失脚したが、上述のスフミ陥落のころガムサフルディア派の蜂起によってジョージアは内戦状態となった。 ソ連解体後の旧ソ連諸国は大きく2つに分裂した。1つは、親ロシア派のグループであり、カザフスタンやベラルーシのほか、資源をロシアに頼るアルメニアやキルギスタン、タジキスタンが含まれる。もう1つは、ロシア支配からの脱却を図り、主として欧米に接近した反ロシア派のグループであり、ウクライナやウズベキスタン、アゼルバイジャン、モルドヴァなどが含まれる。ジョージアは後者に属したが、後者のグループは1997年、それぞれの国の頭文字を取って「GUUAM」を組織している。 1992年のガムサフルディア失脚後、政権の座についたのは、かつてソ連外相を務めたグルジア人のエドゥアルド・シェワルナゼであった。シェワルナゼは、ジョージアに一応の秩序を取り戻し、ロシアの仲介により1992年6月に南オセチアとの停戦協定を結んだ。さらにロシアとの関係改善を重視し、1992年6月のロシアとの国交を樹立し、ロシアの支持を得て翌7月には国連加盟を果たした。1993年にCISに参加し、1995年11月の大統領選挙で圧勝の末第2代大統領に就任してからは、若手を登用し、憲法を採択し、新通貨「ラリ」を導入するなど国家体制を整備して安定政権をめざした。 しかし1990年代後半以降は、シェワルナゼはロシアとの対立関係を強めてゆく。まずアメリカ合衆国の支援とアゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ大統領との盟友関係のもとでパイプラインの誘致などの施策を展開した。これは、ジョージアの地政学的位置を最大限活用し、西側諸国との連携を追求したものであった。しかし、シェワルナゼ政権による国内の経済的な立て直しは遅々として進めなかった。失業問題はいっこうに解決されず、停電やガスの停止、断水の常態化に加え、官界の腐敗が蔓延した。これは、シェワルナゼ時代のジョージアがロシアからのエネルギー制裁をもっと顕著に受けてきたためでもある。ジョージアおよびアルメニアはほとんどのエネルギーをロシアに依存してきたのであるが、この時期、ロシア側が電力供給をきわめて低い状態で制限したところから、長年にわたり、電力不足状態が続いたのである。地方ではまったく通電しない場所すら多かった。 1997年、シェワルナゼ政権は、ウクライナ政府の呼びかけに応じてアゼルバイジャン・モルドヴァとともに上述のGUAM(民主主義と経済発展のための機構)を結成した。これは、ロシア中心の再統合の動きに対し、トルコを経由してパイプライン・鉄道などを建設し、ロシアを通さずに直接西欧市場と結びつく可能性が模索されたものであった。 1990年代にあっては、ロシアの周囲にはアゼルバイジャン国内の「ナゴルノ・カラバフ共和国」、ジョージア国内の「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」、モルドヴァ共和国内の「沿ドニエストル共和国」という4つの「未承認国家」すなわち国際的な承認が得られていない国家が存在し、大きな意味をもった。これらの地域は、「本国」からの分離独立をめざして「本国」と対立し、それが紛争に発展するやロシアの支援を得て「本国」に対して軍事的に一定の成果を得て、さらにロシアが「本国」に対してさまざまな条件を突き付けたうえで停戦を仲介し、事実上の独立を獲得している諸点において相似の関係にあった。また、4地域はそれぞれ政府・議会・軍隊・警察・独自通貨などといった国家の要件といわれるものを一通り備えており、実際に選挙や国民投票などもおこなわれてほとんど国家の体裁を整えている一方で、「本国」の主権がまったく及んでいない点でも共通する性格を備えていた。1990年代後半以降、似通った歴史的経験を経て、共通の課題をかかえる4つの未承認国家は、しばしば「4カ国外相会議」をひらいている。その際、外相会議の議場を警護していたのがロシア兵だったことは示唆的である。
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