地政学的背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 17:56 UTC 版)
メソポタミアの住民自身による最後のメソポタミアの大帝国であり、そしてバビロニアの歴史における最後の、そして最大の繁栄の時代を築いた新バビロニアは、ハカーマニシュ朝(アケメネス朝、ペルシア帝国とも)の王クル2世(キュロス2世)による前539年のバビロン征服(英語版)によって終焉を迎えた。この征服の後、バビロンは独立した王国として再び勃興することはなく、まして大帝国となることもなかった。バビロンはその名声と古の歴史によって重要な地でありつづけ、さらには巨大な人口と都市壁を持ち、何世紀にもわたり現地の信仰の中心として機能していた。バビロンは(パサルガダエ、エクバタナ、スーサと共に)ハカーマニシュ朝の首都の1つとなり、単なる地方都市に降格されなかったために重要性を維持し続けたが、ハカーマニシュ朝の征服によって現地のバビロニア文化に同化せず、メソポタミアの外側に自身のさらなる政治的中心を維持する支配階級が登場した。この新たな支配者たちは自らの支配を継続する上でバビロンの重要性に依存していなかったため、バビロンの名声は否応なく衰えた。 ハカーマニシュ朝の王たちは「バビロンの王ならびに全土の王(šar mātāti)[訳語疑問点]」という称号の使用によってバビロンの重要性を強調し続けていたが、バビロニア人たちは時と共にハカーマニシュ朝の支配に対する怒りを強めていった。ペルシア人が外国人であったことは恐らくこの敵意とほとんど関係がなかった。バビロニアの王たちに課せられていた伝統的な義務と責任を果たす上では、彼らが民族的・文化的にバビロニア人である必要はなかった。過去において多くの外国人の支配者たちがバビロニア人の支持を得ており、多くの現地人の王たちがバビロニア人の軽蔑を買っていた。王の出自よりも彼らが確立されたバビロニアの王室の伝統に沿って王の義務を果たしたかどうかがより重要であった。ハカーマニシュ朝の王たちは帝国の各地に首都を持ち、バビロンの伝統的儀式に参加することは滅多になく(これらの儀式は基本的に王の参加を必要としたため、これは儀式が伝統的な形態で挙行されなかったことを意味する)、神殿の建設と都市神に対する奉納を通じたバビロンの信仰に対する伝統的義務を実行することもほとんどなかった。これらのことから、バビロニア人たちはハカーマニシュ朝の王たちが王の職務に失敗し、従ってバビロンの真の王として必要な神々の承認を得ていないと考えたのかもしれない。 バビロンはハカーマニシュ朝の支配に対して数度にわたって反乱を起こした。最初の反乱は前522年のネブカドネザル3世(英語版)の反乱である。彼は元々はニディントゥ・ベール(Nidintu-Bēl、古代ペルシア語:ナディンタバイラ)という名前であり、ハカーマニシュ朝の征服以前におけるバビロン最後の王ナボニドゥスの息子を称した。前520年代の後半はハカーマニシュ朝にとって動乱の時代であり、多数の地域が新たに即位したダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)に対して反乱を起こしていた。 この動乱はダーラヤワウ1世の即位に伴うもので、ダーラヤワウ1世はハカーマニシュ朝の王となったバルディヤ(カンブジヤ2世〈カンビュセス2世〉の弟、ヘロドトスによればスメルディスという名で、カンブジヤ2世によって警戒され殺害されたという)はガウマータ(ヘロドトスによればこの人物もスメルディスという名前であった)というバルディヤ本人に瓜二つの人物がなりすました偽物であり、彼は僭称者だと主張しこれを排除したと彼自身が作らせたベヒストゥン碑文で主張している。これによく似た記録は古代ギリシアの歴史家ヘロドトスも伝えている。しかし、多くの場合ダーラヤワウ1世のこの主張は単なるプロパガンダに過ぎず、打倒されたバルディヤは偽物ではなく本物であり、ダーラヤワウ1世の方が王位を簒奪した側であり、それを正当化するために偽バルディヤによる簒奪の物語が作られたと考えられている。 この経緯も相まってダーラヤワウ1世は即位後、帝国全土で発生した反乱の鎮圧に奔走しなくてはならなかった。この間の事情もベヒストゥン碑文に詳述されている。ただし、ネブカドネザル3世のものを含めたこれらの反乱の多くは元々はダーラヤワウ1世に対してではなく、即位直後のバルディヤに対するものであったとする見解もある。これはダーラヤワウ1世による簒奪を契機として蜂起したと考えるには各反乱者にその準備をする時間的余裕が乏しいと見られること、またバビロンで発見されたバルディヤ王に言及する文書の中で、知られている限り最後の日付を持つものは前522年9月20日付なのに対し、ネブカドネザル3世に言及する最も早い日付の文書はシッパル市から発見された前522年10月3日付であり、また彼の本名ニディントゥ・ベールに言及する最初のバビロンの文書は10月6日付であることによる。さらにオランダの学者ウィレム・フォーグルサン(Willem Vogelsang)はバルディヤが殺害されてからシッパル市でネブカドネザル3世の支配が確認されるまでの期間が4日しかないことを指摘し、当時の通信事情も考慮すればネブカドネザル3世の反乱はバルディヤの存命中から発生しており、ダーラヤワウ1世の時代まで継続していたものである可能性があるという見解を出している。 経緯はどうあれ、前522年12月13日にペルシア軍のティグリス川渡河の阻止に失敗した後、ネブカドネザル3世に率いられたバビロニア人たちはユーフラテス川沿いのザザナ(英語版)近郊でダーラヤワウ1世との戦いで決定的な敗北を被り、その後バビロンは再占領されネブカドネザル3世は処刑された。
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