グアム島にて戦死扱いに
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1941年(昭和16年)8月には再召集され、中国の満州を経に送られた。1944年(昭和19年)からはグアム島の歩兵第38連隊に陸軍軍曹として配属。同年7月にはアメリカ軍が上陸し(グアムの戦い)、島での米軍との戦いにより日本軍は壊滅状態となり、横井が所属する中隊は同年8月10日に解散。8月に同島で戦死したとされ戦死公報が届けられている。 後に横井が出した著書「明日への道」では、「生存した我々5名は、何より水と食料を確保できる地点が潜伏の第一条件だろうと考えました。昼間はジャングルにひそみ、朝夕は警戒しながら食べ物を探し廻る野良犬生活を始めたのです」と記している。当時、グアム守備隊壊滅後も生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていた。しかし、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされなかった。グアム島にも残留日本兵の投降を呼びかける放送が鳴り響いた。「明日への道」では「その放送を聞いても私たちは敗戦を信じられず、相変わらず敵の襲撃を恐れてジャングルの中をさまよい続けたのです。長くとも十年待っておれば、必ず日本軍は力を盛りかえしてこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました」と記したという。横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活していた。 1946年に5人組のうち二人が投降し、その後1964年に残りの二人が(一部では、台風に巻き込まれたとされる)力尽きた。独りになった横井は「島に眠る数限りない友軍の魂が私を助けてくれる」と信じて生き続けた。 1965年(昭和40年)10月30日の第19回戦没者叙勲では、戦没者として、戦前受けていた勲八等から勲七等青色桐葉章への昇叙者として官報掲載されている。
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