水と食料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
順調な兵力増強に伴って守備隊を苦しめたのが飲料水の不足であった。元々、硫黄島には飲用可能な井戸はなく、雨水を貯める天水槽を島の各所に合計500か所設置していたが、兵力増強に伴い、アメリカ軍による空爆が激化して次々と破壊されてしまい、1944年7月時点で200か所となっていた。そのため、守備隊は常時飲用水不足に陥り、守備兵1人当たり1日の割り当ては水筒1/4まで減らされた。井戸を13か所掘削したが、硫黄島の地下水には硫黄が含まれており、飲用には適さなかった。しかし1か所だけが硫黄分の少ない井戸でかろうじて飲用できたので、残りの井戸は炊事用の水として使用した。炊事はそれら硫黄のまじった水と海水により行ったので、将兵は常に下痢に悩まされており、過酷な陣地構築作業もあって次第に将兵たちは衰弱していった。これは、軍司令の栗林も同じで、毎日の洗顔用の水も飲用以外の水を茶碗1杯程度を副官と分け合っていた。栗林自らが率先して節水をしていたこともあり、部隊指揮官に対しても厳しい節水を求めており、ある日、部隊長が飲用水用の天水槽から汲んだ水に手ぬぐいを浸して体をふいているのを目撃したときには激しく叱りつけたほどであった。その後も空爆によって天水槽の破壊が続き、約80個となったが、徹底した貯水策と節水によって、アメリカ軍上陸時点では50日分の水量を備蓄していた。 慢性的な飲用水不足に対し、食料については、小型船まで使用した夜間の海上輸送によって当時の日本軍前線としては潤沢であった。アメリカ軍上陸時点での主食の備蓄は21,000人の守備隊の85日分となっていた。南方戦線で補給に苦しんでいた日本軍と戦ってきたアメリカ軍も、硫黄島とこれに続く沖縄で戦った日本兵の明らかな栄養状態の改善を認識しており、前線が本土に近づくことによって、補給線が短くなって十分な補給が受けられていたと分析していた。 (硫黄島の)日本軍将兵は、新品の服や装備を身に着け、健康で明らかに食に困っておらず、「米」、「乾燥野菜(大豆、ニンジン、海草、かぼちゃなど)」、「金平糖付き乾パン」、「麺」、「牛肉と野菜の缶詰」が大量に置かれた洞窟が島中に散在していた。 (硫黄島の日本兵の)戦闘糧食は、「米」3食分、「ビスケット」3袋、「魚の缶詰」1個、毎週120グラムの「甘味品」と10人に1本の「日本酒」。 (沖縄の)敵の装備は良好で補給も十分であり、精緻な洞窟陣地は種々の補給品を集めるのに有効であった。 (沖縄の)日本兵はアンダーシャツ、パンツ、シャツ、上衣、ズボンと完全な衣服を着て、寒い夜に備え、厚い服と大量の毛布を集積していた。ジャージ生地で裏打ちされた木綿カーキ色のズボンをはいた日本兵の死体が補給地点の近くで発見されており、これらの上等な服は、明らかに夜間の急な寒さを予測、対処していたことを示している。 沖縄の日本軍の標準的な糧食は、木枠で包まれた金属缶に入っていた。糧食には「牛肉」5オンス缶詰、1ポンドの紙袋入り「粉末醤油」、絹の袋に入った「乾パン」、「サバ」や「マグロ」の缶詰もあった。「味噌」、「梅干」、「マグロ」入りの樽もあったし、白米も十分にあった。 しかし、食料の調達手段が日本本土よりの海上輸送に限られていたので、乾燥食材や缶詰が中心となり、とくに生野菜の不足に悩まされた。栗林は各部隊に畑の開墾を命じ、自らも農具をふるったが、硫黄島の地質は農業に適しておらず、まとまった量の収穫はできなかった。また、備蓄は潤沢ながら、持久戦のため日頃の食事の量を節約しており、1944年9月以降は平時の20%減での支給となった。これは軍司令官の栗林も例外ではなく、自分で率先して将兵と同じ粗食としていた。
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