グアム先住民チャモロ人の戦争被害について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:39 UTC 版)
「グアムの戦い」の記事における「グアム先住民チャモロ人の戦争被害について」の解説
昭和19年1月時点でグアム島には、先住民のチャモロ人24,000名(メキシコ・フィリピン・中国の混血を含む)、外国人33名、捕虜のアメリカ軍人家族113名と占領後に来島した人数も含めて一般邦人が455名居住していた。島民の大多数を占めるチャモロ人の多くが親米的であり、日本占領下に物資不足や生活困窮が酷くなる中で、その傾向が強くなっていった。またチャモロ人の子弟1,000名以上がアメリカ軍に従軍中という事も、チャモロ人の対日感情の悪化に大きく影響していた。 グアム島の防衛強化が進むにつれて、日本軍は陣地構築などにチャモロ人を多数を動員している。一部協力的なチャモロ人もいたが、多くは強制労働であった。しかしアメリカ軍の上陸の可能性が高まると、日本軍はチャモロ人の殆どとなる20,000名を、グアム島南東部マネンガンの収容所を初めとした5か所の収容所に送り込んだ。収容所に収容されたチャモロ人は一部で、多くが自発的に山地に避難したという意見もある。収容所に収容した目的は、チャモロ人の反乱防止や、機密保持のための隔離や、戦闘地域からの避難等色々言われているが、日本軍の正式な意図は資料も残っておらず不明である。収容所には食糧も飲み水もまともになく、多くのチャモロ人が苦しめられたが、結果的にこれら収容所が日米の激戦地と離れた場所にあった為、大多数のチャモロ人の命を救う事となった。それでも戦闘に巻き込まれて亡くなったチャモロ人は数千名に上った。7月31日にアメリカ第77歩兵師団の第307連隊が収容所の内の一つであるアンナン収容所を占領し、2,000名のチャモロ人を解放した。マネンガンの収容所跡は現在平和公園となり、レリーフが設置されている。 アメリカ軍の侵攻が近づくと、夜になると島から発火信号が海上に向けて送られてたり、海岸にアメリカ製のゴムボートが乗り捨てられているのを日本軍が発見し、島民がアメリカ軍へのスパイ行為を行っていると日本軍は疑いだした。神経過敏となっていた日本軍一部は、ウマタッタのメリソで、スパイ容疑をかけたチャモロ人多数を壕に入れて、手りゅう弾を投げ込み殺害するという事件を起こしている。また、機密保持目的の虐殺事件も起こしており、その記念碑もグアム島に散在しているが、一説には日本軍に殺害されたチャモロ人は合計で700人と言われる。
※この「グアム先住民チャモロ人の戦争被害について」の解説は、「グアムの戦い」の解説の一部です。
「グアム先住民チャモロ人の戦争被害について」を含む「グアムの戦い」の記事については、「グアムの戦い」の概要を参照ください。
- グアム先住民チャモロ人の戦争被害についてのページへのリンク