マリアナ諸島の戦い
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「ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)」の記事における「マリアナ諸島の戦い」の解説
1944年6月6日、ザ・サリヴァンズはサイパン島、テニアン島、グアム島へ空襲を行う空母を護衛するため出発した。6月12日の午後にザ・サリヴァンズのレーダーが敵機を捉え、第58.2任務集団は対空戦闘で1機の撃墜を記録した。 サイパンの戦いでアメリカ軍の上陸準備砲撃が始まった6月13日、ザ・サリヴァンズはその日第58.2任務集団と第58.1任務集団が望める位置に留まり、両部隊間の通信拠点として機能した。また、ザ・サリヴァンズは沖合で撃沈された日本の商船の乗員31名を救助して旗艦重巡洋艦インディアナポリス(USS Indianapolis, CA-35)へ移送した。 日本軍機の空襲を受けた6月19日、ザ・サリヴァンズは対空戦闘で彗星1機を撃墜した。一連の攻撃の仕上げとしてパガン島を抵抗なく空襲した後、ザ・サリヴァンズは整備のために第58.2任務集団とともにエニウェトク環礁へ後退した。
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マリアナ諸島の戦い
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「チャールズ・オースバーン (DD-570)」の記事における「マリアナ諸島の戦い」の解説
1944年3月26日、チャールズ・オースバーンは第5艦隊に配属され、翌日にはバーク大佐がマーク・ミッチャー中将率いる空母機動部隊の参謀長に就任するため艦を去った。強力な第58任務部隊(第5艦隊所属の場合には第58任務部隊、第3艦隊所属の場合には第38任務部隊と呼称された)とともに、3月30日から4月1日にかけてチャールズ・オースバーンはパラオ、ヤップ島、ウルシー環礁、ウォレアイ環礁への空襲を実施し、それからメジュロ環礁で補給を行った。同月下旬には、ホーランジアへの上陸支援とトラック環礁およびポナペ島へ空襲を行う空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-10)ら機動部隊の護衛を実施。メジュロへの帰路、チャールズ・オースバーンは次なる大規模作戦であるマリアナ・パラオ諸島の戦いに備え演習に参加した。 1944年6月6日から1944年7月6日にかけて、チャールズ・オースバーンはテニアン島、サイパン島、パガン島、グアム島、そして硫黄島へ繰り返し空襲を行う第58任務部隊の空母を護衛する。これらは敵飛行場と防衛施設の破壊を目的としており、マリアナ諸島各島への一連の上陸作戦での脅威を取り除くものであった。さらにチャールズ・オースバーンはグアム島の沿岸陣地に砲撃を加え、グアムの戦いとサイパン島の戦いを援護する空母エセックス(USS Essex, CV-9)の護衛を実施した。 西海岸でのオーバーホールを終えたチャールズ・オースバーンは1944年11月5日にウルシー環礁へ戻り、11月いっぱいをレイテ島へ向かう船団に上空援護を行う空母の護衛として過ごした。12月19日から24日にかけて、チャールズ・オースバーンはサンペドロ湾からミンドロ島へ向かう補給船団を護衛したが、その途上で激しい空襲を受けた。12月21日に1回の神風を含む4回の空襲に見舞われ、護衛の駆逐艦による対空砲火の援護の下で船団が揚陸を終えるまでの間、さらなる空襲が行われた。
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マリアナ諸島の戦い
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「マリアナ・パラオ諸島の戦い」の記事における「マリアナ諸島の戦い」の解説
1944年2月にマーシャル諸島を攻略したアメリカ軍は、次はマリアナ諸島を目指すことになる。マリアナ諸島を攻略してここに戦略爆撃機B-29を配備すれば日本本土の大部分をB-29で爆撃することが可能になるとともに、フィリピン奪還のための支援基地としてもよい位置にあった。アメリカ軍の最初のマリアナ諸島への攻撃は1944年2月の空襲であるが、これはマーシャル諸島攻略の支作戦であった。第31軍は満州などから到着した兵員を各島に配置するとともに防御陣地の構築(築城)に努めたが、資材の不足や防衛強化の開始からアメリカ軍来攻までの期間が短かったことで充分な陣地の構築はできなかった。防衛の基本方針は上陸中の敵を攻撃して撃滅する水際作戦とされた。日本は東條参謀総長(首相)がアメリカ軍上陸の前日に天皇に「マリアナは確保することができると信ずる。」と上奏したように、防衛に自信を持っていた。この頃、日本海軍も「あ号作戦」という日米艦隊決戦を計画し、5月頃からタウイタウイ(ミンダナオ島とカリマンタン島の間)に空母等の艦船の集結を行っていた。しかし日本海軍は燃料の不足と空母航空機の搭乗員の錬度不足という2つの大きな問題をかかえた状況であった。アメリカはマリアナ諸島攻略のために陸海合わせて約167,000人の兵力を投入した。
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