マリアナ沖海戦以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 20:16 UTC 版)
「隼鷹 (空母)」の記事における「マリアナ沖海戦以後」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1945年9月26日の佐世保での姿。手前に見えるのは波二百一型潜水艦 終戦後、アメリカ軍により撮影された島型艦橋。(1945年10月19日、佐世保にて。艦尾フライトデッキより) 1944年(昭和19年)7月10日、第二航空戦隊は解隊された。同日附の編制替えにより隼鷹は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将:伊勢型航空戦艦伊勢、日向、隼鷹、龍鳳〈後日編入〉:第六三四海軍航空隊)に所属する。煙突や飛行甲板など損傷箇所を修理、12cm28連装噴進砲と対空機銃を増設装備した。並行して艦内の徹底的な不燃化を実施し、食卓・椅子・チェスト・ロッカーなども廃止した。だが、隼鷹が搭載すべき所属航空隊は各方面に転用されてしまった。同年10月中旬以降の捷号作戦では、隼鷹は航続距離の短い駆逐艦に対する燃料補給船(タンカー)として屋代島(周防大島)近くの八島錨地に回航されたという。日本海軍機動部隊最後の作戦行動となったレイテ沖海戦に参加した四航戦の艦艇は、航空戦艦2隻(伊勢、日向)であった。同海戦で第三航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳)は全滅、隼鷹の隣で建造された武蔵も沈没した。以降は搭載する航空戦力がなく、残存空母達は輸送作戦に従事するようになった。空母は格納庫や飛行甲板に大量の物資を積める上に、通常の輸送船と比較して遙かに高速であり、輸送艦としても適任だったのである。隼鷹は大和型戦艦や長門型戦艦用の主砲弾、酸素魚雷、特殊攻撃艇震洋、陸軍兵士約800名(第二挺進聯隊) を満載する。 1944年(昭和19年)10月30日、渋谷清見隼鷹艦長を指揮官として、輸送部隊(空母〈隼鷹〉、軽巡〈木曾〉、第30駆逐隊〈司令澤村成二大佐:夕月、卯月〉)は『緊急輸送作戦』に従事すべく佐世保を出港する。翌日には秋風(第30駆逐隊)と合同した。11月1日に台湾・馬公市に立ち寄ったのち、ブルネイに向け移動中の11月3日夜、アメリカの潜水艦ピンタドが隼鷹を雷撃した。ピンタドの放った魚雷が駆逐艦秋風に命中し、秋風は22時53分に轟沈した。秋風乗組員総員戦死。ピンタドは爆雷攻撃を受けて退避し、隼鷹も難を逃れた。同海域には、ピンタドの他にアメリカの潜水艦複数(ジャラオ、アトゥル等)が遊弋していたが、これらも隼鷹の捕捉に失敗した。 11月6日、隼鷹輸送部隊はブルネイ到着。第一遊撃部隊(大和、長門、金剛、榛名等)と合流、隼鷹は大和型戦艦用の46cm砲弾(九四式四〇糎砲)を供給した。8日未明には第一遊撃部隊に引き続いてブルネイを出港。第一遊撃部隊と分離後、輸送艦隊(隼鷹、利根、木曽、卯月、夕月)は10日夕刻にフィリピンのマニラに到着した。挺進第三聯隊(長 白井恒春少佐)はマニラで下艦した。木曾は同日附で第五艦隊・第一水雷戦隊に編入されマニラで待機することになり、隼鷹隊と分離した。直後の11月13日、木曾はアメリカ軍機の空襲を受けマニラ湾で沈没した(大破着底状態)。一方、隼鷹隊は12日にマニラを出発、西村艦隊唯一の残存艦時雨が隼鷹に合同していた。15日、アメリカの潜水艦バーブから雷撃されたが、5隻とも無事であった。16日、日本近海で隼鷹と利根は護衛艦と分離。各艦母港へ帰投した。11月15日附の編成替えで第一機動艦隊・第三艦隊は解隊され、隼鷹は連合艦隊直属、第一航空戦隊所属となる。 11月下旬、隼鷹は再度マニラへ『緊急物資』輸送任務を行うことになった。秋月型駆逐艦2隻の第41駆逐隊(冬月、涼月)、松型駆逐艦槇を護衛として内地を出発した。27-28日にかけて馬公市在泊。11月30日にマニラ到着後、物資揚陸を行い12月1日に出港。武蔵の生存者200名ほどが日本に戻るため隼鷹に便乗した。続いて台湾の馬公市に移動、12月3日に到着。戦艦榛名(艦長重永主計少将)、駆逐艦2隻(霞、初霜)と合流する。榛名はシンガポールで座礁し、18ノット以上を出すと危険な状態にあった。霞・初霜は榛名と分離して第二水雷戦隊本来の任務へと戻っていった。 12月6日、台湾を出港した艦隊(榛名、隼鷹、冬月、涼月、槇)は日本への帰投を急ぐが、もはや本土近海も安全な海域ではなかった。12月9日午前1時30分頃、長崎県野母崎沖の女島付近で隼鷹隊はシーデビル(USS Sea Devil, SS-400)、レッドフィッシュ(USS Redfish, SS/AGSS-395)、プライス (USS Plaice, SS-390) の3隻のアメリカ潜水艦に同時襲撃された。シーデビルかレッドフィッシュのどちらかが発射した魚雷2本が隼鷹の艦首と右舷中央部に命中した。武蔵の生存者を「また沈没するのか」と慌てさせた。隼鷹の艦首部底部は10m近く亡失した。右舷中央部に命中した魚雷により右舷機械室は満水となるが、浸水被害を中央隔壁で食い止めたため左舷機関は無事だった。戦死者19名、浸水被害は約5000トン。右舷に18度傾斜した隼鷹は13ノットを発揮、佐世保に向かった。後方の涼月は、隼鷹が転覆するのではないかと懸念していたという。 なお、石塚(槇艦長)によれば槇は、隼鷹に向かう魚雷に意図的に被雷し隼鷹を守ったとされる。当時槇を操艦していた後藤航海長によれば、先頭槇-榛名-隼鷹の順序で嵐の中を航行していたところ榛名から『槇は隼鷹の後につけ』の命令があり、榛名、隼鷹の右側を反航して南下した。水中聴音機により潜水艦を確認。警戒しながら隼鷹の後方につくべく面舵に転舵したところ左舷前方から魚雷が迫り、被雷面積を最小限におさえるため艦長の許可を得て直進した。艦中央部への命中は避けられたものの、槇は艦首に被雷して艦首部を喪失、微速前進で長崎港へ帰投している。槇は隼鷹の乗組員から大いに感謝されることになった。
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