マリアナ諸島への進攻決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
「太平洋戦争」の記事における「マリアナ諸島への進攻決定」の解説
アメリカ海軍作戦部長のキングは、マリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る経済的な生命線を担う日本にとっての太平洋の鍵で、これを攻略できれば、台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると分析し、その攻略を急ぐべきだと考えていた。アメリカ陸軍でも、アメリカ陸軍航空軍司令官アーノルドが、B-29による日本本土空襲の基地としてマリアナの確保を願っていた。既に中国本土からの日本本土空襲の準備は進められていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいであり、日本本土全てを出撃圏内に収めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好の位置であった。また、中国内のB-29前進基地への補給には、補給量が限られる空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。そこでアーノルドは連合軍首脳が集まったケベック会議で、マリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。 アーノルドらの動きを警戒したマッカーサーは、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。 キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。キング自身の計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍を味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドという陸海軍の有力者が、最終的な目的は異なるとは言え手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなり、1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。 その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったので、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催した。その会議では、マッカーサーの代理で会議に出席していたサザランドには、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、マリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。
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