マリアナ海域漁船集団遭難事件
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マリアナ海域漁船集団遭難事件(マリアナかいいきぎょせんしゅうだんそうなんじけん)は、1965年10月7日に発生した台風による海難事故である。この事故では209人の犠牲者(死者1人、行方不明208人)が出ており、第2次世界大戦後の日本における漁船の遭難事故としては、1954年5月のメイストームによる北海道近海でのサケ・マス漁船集団遭難に次いで大きなものとなった。また海上自衛隊は、創設以来初めての海外での災害派遣を実施した[1]。通称「マリアナ海難」。
注釈
- ^ 9月末に付近を通過した台風第28号(最低気圧900ミリバール)の際にも漁船群は同様の回避行動を取ったが、台風第28号は島を大きく迂回するように南から西の海上を離れて通過し、そのためアグリハン島近海では東寄りの風が卓越して、漁船群にとっては島が風除けの役割を果たしたので、安全に台風をやり過ごす事ができた。台風第29号も28号と似た進路を取ると予報されたため、漁船群は同じようにアグリハン島の西側で台風通過を待つ予定であった。
- ^ なお、帰投中の「はまな」は、父島の北方海面で漁船第5常丸(99総トン)が漂流中であることを知り、救助に向かい、18日午後これを発見、曳航して翌19日末明、巡視船「しきね」に引き渡した後、20日午後零時半、横須賀に帰投した[1]。
- ^ 台風が海上にある時は正確な観測データが得にくいため、第2次世界大戦後、アメリカ軍は台風やハリケーンの域内に気象観測用の飛行機を飛ばし、位置や進行方向、速度、中心気圧、最大風速その他重要な観測を行なった。日本の気象庁も、アメリカ軍のハリケーン・ハンターによる台風のデータを活用して予報に役立てたが、設立や維持に莫大な経費がかかるため、まだ経済成長の途上で財政規模が貧弱であった日本が独自に気象観測機を持つ事はなかった。そのため、必要なデータを必要な時に得られない場合もあり、マリアナ海難でそれが明らかになったものである。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 海上幕僚監部 1980, §12 大規模災害に機動力発揮/災害派遣.
- ^ a b 海難審判所. “日本の重大海難(マリアナ海域漁船集団遭難事件)”. 2020年11月12日閲覧。
- ^ 中島 & 城戸 1967.
- ^ 前田 1966.
- ^ a b 海上保安庁総務部政務課 1979, p. 76.
- ^ a b c d e 栄井 2017.
- ^ 焼津まちかどリポーター かめ (2022年11月15日). “海と生きる町 浜当目海岸を歩く”. やいづライフ. 2023年3月4日閲覧。
- ^ 第8号 昭和40年11月5日に取り上げられている。
- ^ 徳永 & 大塚 1995, pp. 192–193.
- 1 マリアナ海域漁船集団遭難事件とは
- 2 マリアナ海域漁船集団遭難事件の概要
- 3 その後
マリアナ海難
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「昭和40年台風第29号」の記事における「マリアナ海難」の解説
詳細は「マリアナ海域漁船集団遭難事件」を参照 10月7日、マリアナ諸島で漁業を行っていた日本のカツオ漁船とマグロ漁船の7隻が気象情報に反して進んできた台風第29号に巻き込まれる海難事故が発生した。台風は当初の気象情報ではアグリハン島から離れた海域を通過すると予想されており、遭難した漁船7隻はアグリハン島の西沖に停泊して台風の通過を待っていたが、台風は急発達しながら10月7日朝にアグリハン島に接近、通過したので、70m/s前後の暴風は東から南を経て西に急変し、停泊していた漁船7隻は台風の暴風にまともにさらされたうえ、風向の急変によって生じた激しい三角波を伴う巨浪を受け、1隻は沈没し、1隻は島に打ち上げられ大破、5隻は行方不明となった。台風通過後の捜索で3名が救助されたが、死者・行方不明209名を出す大惨事となって、当時の日本社会に衝撃を与えた。
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