一撃講和説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)
閣議における発言そのままに抗戦し、本土決戦で連合軍に一撃を与え、国体の護持など有利な条件を認めさせたうえで講和を結ぼうとした説である。軍事評論家伊藤正徳によれば、阿南は太平洋戦争に勝利できるとは考えていなかったが、1度でいいから日露戦争における遼陽会戦や奉天会戦のような、大軍同士の衝突による「会戦」を戦って、勝利した後に和平を講じたいという陸軍の総意には逆らえず、阿南自身も「会戦」に持ち込めば5分5分での勝利を夢想していたのではないかと推察している。本土決戦となれば、連合軍の南九州上陸作戦であるオリンピック作戦でようやく念願の「会戦」を戦うことができ、そこが連合軍に痛撃を与える最後の機会と阿南が考えていたと推察している。終戦時の陸軍人事局長で、阿南が人事局長時に部下として働き指導を受けた額田坦も著書に「阿南大将のお考えは、何処かで敵を叩き落し、これを講和の端緒とするにあり」「米軍の九州来寇(奇しくも時期、兵力も想定通りで、兵力も日本軍精強兵団と全く同数であった)に際し、水際撃滅の敢闘に続く軍民一体となって行うゲリラ戦によって必ず米軍に一泡吹かせることができる。これこそ講和の好機であるとのご意図ではなかったか」と阿南の考えを推測して記述している。 一方で、終戦時の陸軍次官の若松は、阿南が「たとえ本土決戦に支障があっても構わぬ。敵に一大打撃を与えるため、陸軍航空の主力をこの際沖縄に投入すべきと思うが、君はどうも思うか」と意見を求められたことや、沖縄戦が終わり、連合軍機動部隊が日本近海に接近してきた頃に、航空総軍の高級参謀を招致して「本土決戦は考えなくてよい、陸軍航空の主力を以て、敵艦隊を攻撃することはできぬか」と作戦干渉的なことをしているのを目撃したことで、阿南はなるべく日本本土に戦火が及ばないような状況で、敵に一大打撃を加えて講和に持ち込もうとしていたと推測している。しかし、敵に一大打撃を与える機会を与えられないまま、ポツダム宣言受諾の聖断が下ったため、国体護持の確信が持てなかった阿南は、このまま無条件降伏するのは信念上で耐えられず、最後まで昭和天皇に御翻意を嘆願したが、終戦の聖断が下ると「承詔必謹」で、一死をもって日本陸軍の有終の美を為さしめたと振り返っている。
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