負傷者後送とは? わかりやすく解説

負傷者後送

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 00:18 UTC 版)

朝鮮戦争において負傷者を後送するアメリカ空軍のシコルスキーR-5ヘリコプター

負傷者後送(ふしょうしゃこうそう; 英語: Casualty evacuation, CASEVAC)は、負傷者医療機関に搬送する行為[1]医療行為を行う場合は医療後送(MEDEVAC)として区別されるが、CASEVACでも衛生兵などによる応急処置程度は行われる[1]

概要

航空機による傷病者の輸送はまずCASEVACとして着手され、1870年代初頭に普仏戦争パリを占領していたプロイセン軍が観測気球を用いて行ったのが端緒とされる[1]。また固定翼機による最初の患者空輸は、第一次世界大戦中の1915年秋にセルビアで行われた[2]フランスのパイロットであったルイ・ポーランスロバキアのパイロットであったミラン・シュテファーニクを航空機で救助した[3]

また1930年代には、回転翼機による傷病者の輸送が試みられるようになった。アメリカ陸軍オートジャイロに担架収容用のバスケット2基と軽症者用の座席を追加し、1936年には医療野外役務学校(MFSS)において試験を行った。この結果、有用性は認められたが、既に第二次世界大戦の開戦が迫っており、予算難から実用化には至らなかった。その後、ヘリコプターが発達し、1942年にR-4が発注されると、救急機としても注目された。同機は単座ではあるが胴体の左右に担架を載せることができ、陸軍資材センターによる試験結果を受けて、陸軍軍医部は、同機は救急機として有用であると結論した[1]

実任務としては、1944年4月25日から26日にかけて、当時、日本軍が占領していたビルマにおいて、アメリカ陸軍のカーター・ハーマン少尉がYR-4Bを用いて、敵地内に開設された第1特任航空群の秘密飛行場を経由して1名のアメリカ人パイロットと3名の負傷したイギリス兵を1名ずつ4往復で救助したのが最初であった[4]。敵火の下での患者後送は、1945年にマニラにおいて、5名のパイロットが75~80名の兵士を1~2名ずつ救出したのが最初であった[5]

その後、朝鮮戦争ではより本格的にヘリコプターによるCASEVACが展開された。1951年、第8軍は3個のヘリ分遣隊を編成して11機のOH-13を運用している。1953年7月の休戦までの間に、OH-13は約17,700名の傷病者を搬送する実績を挙げた。また同時期には、インドシナ戦争でもフランス軍がヘリコプターによるCASEVACを行なっており、1950年4月から1954年初頭までに約5,000名を搬送した[1]

その後、アメリカ合衆国が南ベトナムを支援しての軍事介入を開始すると、再び同地でヘリコプターによるCASEVACが行われるようになった。1962年4月には、チャールズ・ケリー少佐を指揮官として最新のHU-1A(後のUH-1A)を運用する第57医療分遣隊(ヘリコプター救急)が南ベトナムに展開し、後に機材をHU-1Bに更新した。同隊の行動範囲が広がるのに伴って無線交信でのコールサインが必要になり、「ダストオフ」と決せられたが[注 1]、これはヘリコプターによるCASEVACそのものの代名詞として広く使われるようになった[1]

脚注

注釈

  1. ^ 「ダストオフ」というコールサインは、負傷者後送任務は緊急性が高いために場所を選ばず、兵士たちのすぐ近くに着陸することも多かったことから、これによって砂埃を捲き上げる様をイメージしたものであった[6]

出典

  1. ^ a b c d e f 石川 2020.
  2. ^ Serbia, RTS, Radio televizija Srbije, Radio Television of. “Veliki rat - Avijacija”. rts.rs. 2020年4月18日閲覧。
  3. ^ L'homme-vent, special issue of L'Ami de Pézenas, 2010
  4. ^ Fries, Patrick. When I Have Your Wounded: The Dustoff Legacy (DVD), Arrowhead Films, 2013.
  5. ^ Conner, Roger. Medevac From Luzon, Air & Space Magazine, July 2010.
  6. ^ 高井 1992.

参考文献


負傷者後送 (CASEVAC)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:36 UTC 版)

患者後送」の記事における「負傷者後送 (CASEVAC)」の解説

航空機による傷病者輸送はまずCASEVACとして着手され1870年代初頭普仏戦争パリ占領していたプロイセン軍観測気球用いて行ったのが端緒とされる。また固定翼機による最初患者空輸は、第一次世界大戦中1915年秋にセルビア行われたフランスパイロットであったルイ・ポーランスロバキアパイロットであったミラン・シュテファーニク航空機救助した。 また1930年代には、回転翼機による傷病者輸送試みられようになったアメリカ陸軍オートジャイロ担架収容用のバスケット2基と軽症者用の座席追加し1936年には医療野外役務学校(MFSS)において試験行った。この結果有用性認められたが、既に第二次世界大戦開戦迫っており、予算難から実用化には至らなかった。その後ヘリコプター発達し1942年R-4発注されると、救急機としても注目された。同機単座ではあるが胴体左右に担架載せることができ、陸軍資材センターによる試験結果受けて陸軍軍医部は、同機救急機として有用であると結論した。 実任務としては、1944年4月25日から26日にかけて、当時日本軍占領していたビルマにおいて、アメリカ陸軍のカーター・ハーマン少尉YR-4B用いて敵地内に開設された第1特任航空群の秘密飛行場経由して1名のアメリカ人パイロットと3名の負傷したイギリス兵を1名ずつ4往復救助したのが最初であった。敵火の下での患者後送は、1945年マニラにおいて、5名のパイロット7580名の兵士を1~2名ずつ救出したのが最初であったその後朝鮮戦争ではより本格的にヘリコプターによるCASEVAC展開された。1951年第8軍は3個のヘリ分遣隊編成して11機のOH-13を運用している。1953年7月休戦までの間に、OH-13は約17,700名の傷病者搬送する実績挙げた。また同時期には、インドシナ戦争でもフランス軍ヘリコプターによるCASEVAC行なっており、1950年4月から1954年初頭までに約5,000名を搬送したその後アメリカ合衆国南ベトナム支援して軍事介入開始すると、再び同地ヘリコプターによるCASEVACが行われるようになった1962年4月には、最新HU-1A(後のUH-1A)を運用する57医療分遣隊(ヘリコプター救急)が南ベトナム展開し、後に機材HU-1B更新した。同隊の行動範囲広がるのに伴って無線交信でのコールサイン必要になり、「ダストオフ」と決せられたが、これはヘリコプターによるCASEVACそのもの代名詞として広く使われるようになった

※この「負傷者後送 (CASEVAC)」の解説は、「患者後送」の解説の一部です。
「負傷者後送 (CASEVAC)」を含む「患者後送」の記事については、「患者後送」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「負傷者後送」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「負傷者後送」の関連用語

負傷者後送のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



負傷者後送のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの負傷者後送 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの患者後送 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS