負傷者の治療
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「負傷者の治療」の解説
負傷者の治療については、噴火当日の7月15日夕方までに救出された人たちは猪苗代警察分署と猪苗代小学校の校舎の一部に収容され、猪苗代小学校校舎に設けられた治療所で治療を受けた。また負傷者が多かった磐瀬村長坂にも仮病室が設けられ、緊急治療が施された。負傷者の多くは裂傷や骨折、打撲などを負っており、まず地元の開業医が治療に当たったが、災害発生当初は治療に携わる人員と治療に必要な医薬品や医療機器の不足から、対応は困難を極めた。 やがて福島県域の病院、そして日本赤十字社、東京帝大からも医師が来援し、被災後しばらくの間、負傷者の親族に任されていた看護も、7月25日以降は看護師が行うようになった。治療の結果、症状の軽快、在宅療養への切り替えが進み、7月25日には日新館に治療所が移された。更に8月14日には重傷者は福島病院に転院となり、軽症者は在宅で地元の医師が診察を行うことになって治療所は閉鎖された。治療中に伝染病にかかり隔離される患者も出るなど、治療所の運営には多くの困難が伴った。また治療中に12名の負傷者が亡くなり、障害が残った者もいた。 なお、この噴火災害に対して日本赤十字社が行った災害派遣は、これまで赤十字社の活動が戦時の救護に限定されていた中で、災害救護の先駆けとなる事例となった。派遣に際しては被災地の現地視察を行った折内福島県知事から山縣有朋内務大臣に宛てた被災地の医師不足を伝える電報が、山縣から宮内大臣の土方久元を通して皇后の耳に届いた。皇后は7月19日、宮内省を通して日本赤十字社に対して医員の派遣を行うよう要請し、日本赤十字社社長の佐野常民は早速派遣を決定した。 日本赤十字社の活動は災害発生から6日後の21日からとなった。派遣が皇后の意向で決められたという経緯から、活動は福島県など現地関係者の全面的なバックアップのもとで行われた。災害当初は整備されていなかった支援体制も21日になると整備されつつあり、患者数も徐々に少なくなっていた。そのため、派遣に実際的な意味が無かったとする見方もあるが、派遣医師が持参した医薬品や医療機器は大いに歓迎され、現地で活動中の地元医師と協力しながら救援体制の整備に一定の役割を果たし、24日で支援活動を終了した。 また皇后の派遣要請を受けて日本赤十字社の医師が救援活動に従事したことは、地元において磐梯山噴火の負傷者に対する見方を好転させ、全国的に活動が報道される中で、災害時の人命救助、負傷者支援の重要性を知らしめる機会となった。そして日本赤十字社の活動についても広く知られる機会となった。 そして後述のように1888年の磐梯山噴火は広くマスコミによって報道され、学術的な研究や支援を行いたいと、現地入りを希望する人たちが大勢現れた。その中で帝国大学医科大学も医師の派遣を計画し、福島県に打診を行ったが、現地は医師が足りているとのことで派遣は断られた。しかし医科大学大学院生であった芳賀栄次郎は会津若松出身であり、是が非でも故郷の災害救援に携わりたいと願い、同じく大学院生であった三輪徳寛とともに、帝国大学総長名の福島県知事あての紹介状を携えて現地に向かい、ボランティアで医療活動に従事した。これは日本における災害時ボランティアの先駆的な試みとなった。
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