水際での死闘とは? わかりやすく解説

水際での死闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)

ペリリューの戦い」の記事における「水際での死闘」の解説

アメリカ軍8月下旬からビアク島などニューギニア北西部からの陸軍爆撃機9月6日からの海軍艦載機による予備爆撃加え9月12日からは戦艦5隻(ペンシルバニアメリーランドミシシッピテネシーアイダホ)、重巡洋艦5隻(コロンバスインディアナポリスルイビルミネアポリスポートランド)、軽巡洋艦4隻(クリーブランドデンバーホノルル)、駆逐艦14隻からの艦砲射撃高性能焼夷弾集中砲火始めて島内ジャングル焼き払った上陸前上陸時支援として撃ちこまれた艦砲合計6,894トンにおよび、支援射撃指揮していたジェシー・B・オルデンドルフ少将当時としてはもっとも完全でいかなる支援より優れていたと評価していた。3日におよぶ激しい砲爆撃は、構築され障害物防御施設見渡す限り吹き飛ばしたが、それらはアメリカ軍の上陸遅延させるために設置され偽装にすぎず、日本軍の主抵抗線はほとんど無傷であった日本軍アメリカ軍の上陸予想される日本軍西浜呼称していた南西部海岸に「イシマツ」「イワマツ」「クロマツ」「アヤメ」「レンゲ」と名付けた陣地事前に構築していたが、それらの陣地珊瑚礁固い台地利用した歩兵2〜3人が収容できる遮蔽された歩兵壕が無数に掘ってあった。 また小さな鉄筋コンクリート製のトーチカ築かれ速射砲配備されていた。内陸部には、野砲迫撃砲配置するトーチカ築かれ、最も堅牢なものは1.5m厚のコンクリート製出入り口にも分厚い鋼鉄製の扉が付けられていた。これらの火砲海上艦船航空機より直接攻撃できないように工夫され配置になっており、高台にいる観測兵により正確な砲撃要請が行える体制となっていた。 上陸当日9月15日午前5時半から西浜海岸一帯への艦砲射撃始まり、8時の上陸開始の少し前に艦載機50機の爆撃切り替わり、それから日本側の砲撃妨害するため発煙弾打ち込まれて、上陸支援艇からの近距離援護射撃の下、第1, 第5, 第7海兵連隊の3個連隊12,000名を主力とする海兵隊が、第1波4,500名を皮切りに第6波までに分かれて上陸開始したアメリカ軍上陸地点南北3km弱の西浜北からホワイト1, 2オレンジ1, 2, 3というコードネーム5つ区分していた。「海岸流血染まったためにオレンジ海岸呼ばれるようになった」という説は誤りである。ホワイトには第1海兵連隊オレンジには第5、第7海兵連隊向かっていたが、各連隊向かっている海岸には日本軍構築していた各陣地待ち構えていた。 海岸線日本軍設置していた障害物機雷は、アメリカ海軍水中破壊工作部隊英語版)の活動艦砲射撃によってあらかた除去されていたため、上陸部隊順調に海岸へ近づいていったが、珊瑚礁線に近づく残存していた地雷機雷により上陸用舟艇十数撃沈された。そのため、上陸用舟艇アムトラック部隊一時混乱陥ったが、リュパータス師団長支援のため、艦艇より発煙弾撃ち込ませ混乱沈静化図ったアメリカ軍の上陸部隊態勢立て直すとまた海岸線への接近再開したが、一方で日本軍中川大佐命令により、敵を徹底的に海岸引き付けることとしており、兵が逸るのを抑えて射撃自重させていた。「イシマツ」「イワマツ」「クロマツ」を守る中島正中尉率いる第5中隊基幹とする主力部隊は、アムトラック目前に迫ると軍用犬砲兵陣地砲撃要請行った。1匹目の軍用犬途中で死んだが、2匹目で野砲陣地連絡成功し上陸部隊100m150m至近距離まで接近したところで、射撃開始命令下された。特に中川大佐直轄であった野砲大隊九一式十糎榴弾砲は、山腹洞窟陣地配置されており砲爆撃にもほとんど損害はなく、眼下に群がる敵に「この時こそ天がわが砲と我々に与え好機なり」と自信をもって砲門開き上陸用舟艇一斉射撃加えた日本軍激し砲撃で、珊瑚礁大小の穴だらけとなり、上陸用舟艇アムトラック次々炎上し海兵隊兵士吹き飛ばされた。スコールのような砲撃による砂塵が収まると、アメリカ兵の殆どが死傷し倒れており、そこで中島中隊射撃開始上陸部隊はさらに大損害を被って煙幕焚きながら一時退却するという場面すらあった。それにもかかわらず第1波の上陸から1時間後には、アメリカ軍第2波上陸部隊西浜殺到した日本軍緻密に迫撃砲照準珊瑚礁上に設定しており、正に砲弾カーテンのような弾幕となっていた。また野砲容赦なく降り注ぎアムトラックアムトラック戦車砲搭載したアムタンクが次々と撃破された。「アヤメ」「レンゲ」など南部方面海岸守備していた千明武久大尉率い歩兵第15連隊 第3大隊主力部隊は、前もって海岸線強固なトーチカ設置しており、そのトーチカ設置した一式機動四十七粍速射砲上陸部隊狙い撃った。敵主力戦車には貫通力不足が指摘される速射砲も、装甲が薄いアムトラックやアムタンクに対して過分な威力であり、海兵隊公式には上陸初日26両のアムトラック撃破されたとしているが、実際60両以上が撃破されていた。その惨状見た海兵隊中佐は「こんな戦闘これまで見たことが無い。1両40,000ドルもするアムトラックこんなに炎上しているのを見て衝撃受けた」と語った連隊長ブラー大佐搭乗していたアムトラックも5発の砲弾を受け撃破された。ブラー大佐は無事であったが、一緒連隊幕僚通信兵乗っていたアムトラック5両も撃破され幕僚通信兵多数戦死し第一海兵連隊通信ができなくなり8時間渡って戦況把握できなくなった。また第一海兵連隊15両の水陸両用M4中戦車集中砲撃を受け3両が完全撃破され、他の車両損傷受けた。この時の海兵第1師団戦いぶりは、後年に「太平洋戦争で最も激しくもっとも混乱した戦闘」と評された。 支援射撃指揮していたオルデンドルフ少将は、壊滅させたはずの日本軍陣地から猛烈な反撃受けている様子見て驚愕するとともに常な口惜しさを覚えていた。砲撃次々とアムトラック撃破され、兵士らは徒歩日本軍トーチカ塹壕迫っていったが、小火器による射撃猛烈容易に前進できなかった。過酷な状況の中で、皮肉にも日本軍構築していた対戦車壕塹壕代わりとなりアメリカ軍退避場所となった対戦車壕上陸海岸線全域掘られていたため、兵士らは壕内で前進体制を整えることができた。その様子を見て対戦車壕そのままアメリカ軍橋頭堡なりかねない懸念した日本軍は、対戦車壕潜むアメリカ兵に対して激しく攻撃した。まずは山腹展開している砲兵隊支援砲撃要請するため軍用犬走らせたが、アメリカ軍砲撃直撃し、たちまちバラバラになって吹き飛んでしまった。それでも諦めず二頭目を走らせたところ、今度はうまく砲兵陣地連絡がついて、激し砲撃で壕内のアメリカ軍大損害を与えた。それでも、アメリカ軍大損害にも怯まず前進し陣地護る日本軍と距離10mの至近距離激し白兵戦繰り広げた日本軍は「陣地守り抜け一歩も退くな」「撃ち殺せやっつけろ」と怒号浴びせながら、手榴弾投げて小銃撃ちまくったが、そのうち剣道覚えのある下士官周囲止めるのも聞かず軍刀を手に匍匐前進アメリカ軍前線接近しアメリカ兵目の前で立ち上がった刹那に、そのアメリカ兵の首を一刀のもとに刎ねた。その様子を固唾を呑んで見守っていた日本兵たちは「やった」と歓声上げたが、その直後首を刎ねられたアメリカ兵握っていた手榴弾爆発し、その下士官跳ね飛ばされてしまった。このように、もはやどこが前線かわからないほど敵味方入り交って互い死傷者累々と横たわり中には敵味方死体積み上がっている場所もあった。そのような戦場ひたすら両軍兵士殺し合いをしており、戦場壮絶極めていた。 日本軍海岸多数地雷埋設しており、その効果期待寄せていたが、殆どが海水動作不良になり不発となった地雷有効に機能していたらアメリカ軍はもっと悲惨な状況におかれていたと思われる一方で大量に残っていた航空爆弾転用し急造地雷多大な効果発揮し、その絶大な威力により地雷踏んだアムトラック引っ繰り返ったと言う前線より入ってくる報告悲惨なものばかりで、上陸前楽観的だったリュパータス師団長師団司令部は非常な不安に襲われ直接状況確認するために副師団長オリバー・P・スミス准将海岸上陸することとした。スミス准将らは第5海兵連隊と第7海兵連隊の上陸地であったオレンジ海岸向かったオレンジ海岸スミス准将到着したころには対戦車壕態勢整えた第5連隊と第7連隊内地向かって前進開始しようとしていたが、断片的な情報しか得られなかったリュパータス師団長オレンジ海岸なけなしの予備部隊である1個ライフル兵大隊投入することにした。 しかし、実は通信機破壊され連絡取れなくなっていたブラー大佐率いる第1海兵連隊依然としてもっとも悲惨な状況で、死傷者は既に400以上に達しており、最優先予備部隊投入が必要であったが、師団司令部は知る由もなかった。第1海兵隊指揮系統が完全に寸断されており、多数部隊日本軍陣地の中で孤立していた。 ここで、日本軍第一反撃計画に基づき中川大佐反撃の有力戦力として温存していた95式軽戦車伴った決死斬込隊による反撃おこなった17両の95式軽戦車車体にはロープがまかれ、そのロープ歩兵掴みタンクデサントでの出撃となった中川大佐期待大きく出撃する戦車隊対しいつまでも手を振っていたという。ペリリュー島配置されていた95式軽戦車隊は第14師団直轄戦車隊であり天野国臣大尉率いていた。天野隊長車の砲塔側面「さくら」ペンキ記されており、他の車輌識別しいように1輛ごとに名前がつけられ「さくら」同様に砲塔側面車名記されていた。戦車隊連日の猛訓練により、800mの距離でも100発100中命中率誇っていた。天野は自ら先頭車乗り込む整備中の1輛を除いた16輛で最高速度45km/hで目標西海岸突進していった。天野戦車隊は第1海兵連隊と第5海兵連隊中間点あたりに進撃してきた。海兵隊今まで太平洋の各戦場日本軍無謀なバンザイ突撃何度となく撃破してきたが、この反撃戦車と歩兵見事に連携した攻撃であり、今まで日本軍とは違って非常に手ごわい感じたという。 しかし、突進してきた戦車隊M4中戦車待ち構えており、訓練度に勝る95式軽戦車砲弾次々とM4中戦車捉える貫通することができず、逆にM4中戦車の75mm砲は易々とわずか12mmの95式軽戦車装甲貫通し次々と炎上させた。天野軽快動き活かしてM4中戦車側面回り込んで砲弾浴びせたが、それでも豆鉄砲のようなもので貫通できなかった。また、サイパンの戦いで、日本軍戦車第9連隊戦車多数撃破した新兵器バズーカがここでも猛威振るって戦車隊目的海岸達す前に大損害を被り海岸付近まで達することができた戦車はわずか6両で、その6両も集中砲撃勇猛な海兵隊員による白兵戦次々と撃破され、生き延びたのはわずか2両と壊滅し反撃失敗終わった夕刻遅くにようやく師団司令部は第1海兵連隊連絡がつき、上陸初日死傷者が1,111名と当初見込み500名の倍に達したことや、その内半分が第1海兵連隊損害であることが把握できたが、第1海兵連隊連隊長ブラー大佐援軍申し出拒否し連隊後方支援要員まで前線回し欠員補充している。第1海兵師団全体でも負傷兵予想以上に出たため、医療品の不足が生じ治療待ち重傷者も多数上った。また多数アムトラック撃破されたため、前線食糧輸送することが出来ず、特に高温の中で水の不足アメリカ兵苦しめた夜になると、日本軍通例である夜間のバンザイ突撃警戒しアメリカ軍守備固めたが、日本軍突撃しない代わりに心理戦のつもりか「アメリカジンブタイヌオマエシヌ」と拡声器使って罵詈雑言浴びせてきた。それに煽られアメリカ兵大声嘲り返すなど、神経すり減らすこととなった。またその隙に、攻略された日本軍陣地を、日本兵夜陰紛れて奪還しアメリカ軍後方脅かしたり、破壊工作行ったりした。南部海岸敢闘した千明率い歩兵第15連隊 第3大隊残存兵も夜間挺身攻撃参加アメリカ軍前線突破成功し中には遠征軍司令官ジュリアン・スミス少将指揮所にまで達した日本兵もおり、危うく警備兵発見し射殺したため、スミス少将は無事であった千明16日明け方戦死し部隊死傷者60%まで達したので島南部撤退し第3大隊残存部隊と合流することとした。 太平洋軍司令官ニミッツにも苦戦知らせ届いていたが、軍の動揺抑えるために公式発表は「1944年9月15日 上陸海岸には、敵の迫撃砲や、火砲による砲弾散発的に落下したが、我が軍攻撃初日損害軽微に留まった」(米太平洋軍司令官公式発表117号)と事実反するものであった

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