上陸地点の予測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:32 UTC 版)
「ノルマンディー上陸作戦」の記事における「上陸地点の予測」の解説
OKW(国防軍最高司令部)はイギリス側が上陸を仕掛ける地域を、カレー、ノルマンディー、ブルターニュのいずれかであると推定していたが、イギリスからもっとも至近距離となるパ・ド・カレーが最も有力と考えていた。ロンメルはドイツ軍の殆どの予想とは異なって、上陸地点はノルマンディになると唯一正しい予想をしていたという意見もあるが、ロンメルは1943年12月23日付で「敵はまず第一にパ・ド・カレーを目指す」と報告していたり、連合軍上陸直前の1944年5月半ばには、指揮下の機甲師団の2個師団をパ・ド・カレーにより近いセーヌ川の北部に配置するなど、他のドイツ軍司令官らと同様に、連合軍の上陸地点をパ・ド・カレーと予想して作戦準備を進めていた。そのため、カレーには20個師団を擁する第15軍が配置されたが、ル・アーヴルからシェルブール間の3,000㎞の防衛線には7個師団を擁する第7軍が配置された。 距離ばかりに目を奪われていたルントシュテットやロンメルに対して、ドイツ軍内では、1㎞に渡る連続した海岸などノルマンディの方が大規模な上陸作戦に適しているという意見や、連合軍が強力に武装されているカレーをわざわざ選ぶはずがないという意見もあり、ヒトラーもノルマンディーが危険と考えていた。1944年2月には、第84軍団司令官エーリッヒ・マルクス(英語版)大将が、ルントシュテットとロンメルも参加した図上演習で、連合軍をノルマンディーに上陸させてみせて、その危険性に警鐘を鳴らしたが、両名のノルマンディーへの配慮不足には何の変化もなかった。ノルマンディーの危険性を懸念してきたヒトラーも、1944年5月に両司令官に兵力増強を打診した際に、ロンメルが「決戦場である海峡海岸から、ノルマンディーに兵力を回すことはできません」と強く拒否し、ルントシュテットもこれに同意したこともあって、両司令官の自信に対して自分の考えが揺らいでいた。それでもヒトラーは懸念をぬぐい切れず、ロンメルの反対を押し切って第91歩兵師団(英語版)をノルマンディーに移動させている。 カレーへの連合軍上陸を確信していたロンメルであったが、準備を進めていく中で次第にノルマンディーに上陸する可能性も高いと考えるようになった。そのため、ノルマンディーへの視察の頻度を上げたロンメルは、のちに「オマハ・ビーチ」と呼ばれる海岸の防備の強化を命じ、海中や海岸には各種障害物を濃密に設置し、多くの火砲も配置するなど強化を図った。オマハ・ビーチ一帯の海岸線は、ロンメルが北アフリカで苦戦させられたイギリス軍の要塞に因んで「トブルク」と名付けられた。 「トブルク」には、他に75㎜から170㎜の各種火砲が約110門配置されたが、特に大口径砲はチェコ製leFH 14/19(t)100ミリメートル(3.93インチ)山砲(英語版)など第一次世界大戦のころの旧式の火砲も多かった。セーヌ湾の海岸線の途中から突き出したオック岬(英語版)には、フランス軍から鹵獲したGPF 155mmカノン砲も据えられたが、これも配備は前大戦時の旧式砲であった。このようにノルマンディーの海岸線はもっとも防備が固いはずのオマハ・ビーチですら、旧式砲が中心の心もとないものであったが、連合軍はその威力を過大評価しており、輸送艦隊を必要以上に沖合にとどめたり、砲台撃破のための特殊部隊を投入したりしため、上陸後に拍子抜けすることとなった。
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